鯛の里日記

周防大島町沖家室島の民泊体験施設・居酒屋の日常と、宮本民俗学の学びを書きます。

忘れられた漁法 トリマワシ漁と渡り鳥ヘイケダオシ 沖家室島

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渡り鳥のヘイケダオシ(アビ)。潜水することもできる。提供:(株)フォトライブラリー

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小水無瀬島(こみなせじま)。沖家室島の属島。沖家室島の沖合に浮かぶ無人島。ここで渡り鳥のヘイケダオシ(アビ)によるトリマワシ漁(アビ漁)がおこなわれていた。提供:藤本正明

 

この文章は、神奈川県海老名市の「弥生神社」社報に掲載された拙文です。今回が連載3となります。

弥生神社宮司 池田奈津江さんから依頼があり、執筆を担当しました。その社報「弥生」ですが、力のある執筆者が名を連ねたエッセイはさながら文芸誌です。その一角に僕も名を連ねさせていただいて、たいへん恐縮であります。

今回は、僕の住む沖家室が古い時代に行われていた漁法を取り上げました。過去形としましたのも、今の時代の多くの人がそして漁師さえも知らない漁法となっています。もっとも東和町誌と漁業誌を書かれた宮本常一先生や森本孝先生は触れてはいますが、それに僕なりの考察も入れました。

少々長いですが、Facebook用にテキストを貼りつけました。著作権フリー原稿なので、Wordなどにコピペして読みやすい方法でお読みいただければ幸いです。

あわせて、「弥生」PDF版もリンクページを貼っておきました。他の執筆者の文章もお読みいただけたらと思います。

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 周防大島沖家室島で行われていた漁法 

  ~忘れられた漁法「トリマワシ漁」と渡り鳥「ヘイケダオシ」~

 現在の広島市西区はかつて広大な干潟があった。そこを埋め立てて現在の西区商工センターがある。どのあたりかというと、イズミ系大型ショッピングセンターLECTと言えば地元の人ならわかりやすいだろう。埋め立て面積は三二八万平方メートル。東京ドームの面積四万六,七五五平方メートルに換算すると約七十個分という広大な面積。

 はやい話が貴重な干潟が消失したのである。

 その埋め立て地で一九八七年に(財)海と島の博覧会協会が主催となって「海と島の博覧会」が開かれた。僕は当時三十二歳。三十歳の時に防波堤から転落事故を起こし、左大腿骨の骨折をしてしまった。リハビリを兼ねて妻に手を引かれて会場へ赴いた。

 三十歳を機会に、広島から周防大島町の最南端の故郷である沖家室島にUターンをした。その矢先の事故だった。Uターンの暁には漁師になるつもりだった。

 海と島の博覧会。通称「海島(しま)博」。瀬戸内の未来を創造する博覧会に期待を寄せた。巨大な会場は遊園地だった。数々のパビリオンがあった。瀬戸内の未来を創造するような内容に出会った記憶はない。

 ひとつ目に留まったのがアビである。この海島博のマスコットに使われていた。僕はアビという鳥は知らなかった。アビは渡り鳥である。広島県の県鳥にも指定されている。広島県ではこのアビを利用した伝統漁法があることをこのとき初めて知った。  

 アビは瀬戸内海へ毎年冬になるとやってきて、春になるとシベリアなどの繁殖地に帰って行く冬鳥という。越冬のため瀬戸内海に渡来してきたアビは、餌であるイカナゴを捕まえようとし、イカナゴは逃げ回って群れをなしながら海底にもぐる。このとき海底にひそんでいるタイやスズキもイカナゴを追いかけて水面に移動して来る。漁師たちは、このタイやスズキをイカナゴを餌にして釣り上げる。この漁法はアビ漁と呼ばれ、少なくとも三〇〇年以上前から続いていた古い漁法。これが僕にとって最大の収穫だった。

 海島博が終わり、しばらくして会場があった商工センターを車で走った。すっかり建物はなくなり、広大な広場だった。その中でひとつポッツリと、金属製の円錐が残されていた。記 憶にある。これが海島博のシンボルタワーではなかったか。中に入って見上げた記憶もある。

 ここは広島湾。かつて広大な干潟だったはず。ここを生業(なりわい)にした漁業者はどうしただろう。貴重な干潟を埋め立て、人を海から遠ざけることになんの意味があるのだろう。後から知ったのだが、このシンボルタワーは元陸軍ふ頭のあった宇品の一万トンバースに移設されたそうだ。瀬戸内の未来を創造すると期待した海島博。今思えばあの子どもたちの歓声やきらびやかなパビリオンは蜃気楼であり、埋め立て地を覆い隠す砂上の楼閣でもあった。

 僕は島に帰って漁師である父に、「アビって鳥、知っちょる?」と聞いたら知らないと言う。そしてアビ漁のことを説明すると「ああ、昔そういう漁をしていたらしい。その鳥はウワメじゃ」。 それから宮本常一の著作などを読み進めていくと意外なことがわかった。アビのことを沖家室ではウワメもしくはヘイケダオシといい、アビ漁をトリマワシ漁という。これが面白い。これは僕の推論だが、この沖家室から本土に渡り、道の駅のある長崎地区の反対側の海沿いに船越という地区がある。そこに小高い城山(じょうやま)と呼ばれる山がある。史書吾妻鏡』によると、ここはかつて平知盛の居城があったと言われている。源平最後の合戦となった壇ノ浦の合戦の前夜である。ここから出陣したのである。

 そういうこともあるのだろう。この地区には宮島様を祀った赤い鳥居が結構ある。そもそも宮島様は女の神様で海を渡ってきた。福岡県宗像市にある宗像神社を出た三女神は周防大島の西にある平郡島に上陸したものの、そこに七つの浦がなかったので「ここはイヤじゃ」と出て行った。その場所を今でも五十谷(いや)と呼ばれている。その後、この周防大島の小島にやってきた。すると島が揺れたというのだ。「この島は生きておる」と言って出て行った。そこを生島(いきしま)と呼ぶようになった。場所は道の駅から大島大橋に向かって五〇〇メートルくらいの道沿いから海の方をみると赤い鳥居があるからわかる。僕が中学生のころまでは離れ小島であったが、今は埋め立てて陸続きとなっている。

 その後、宮島様は安芸の国の厳島へ渡り平清盛によって厳島神社が建立されたのである。ここには宮島様が所望された七つの浦があった。七浦を讃えたこんな歌がある。

 「安芸の宮島まはれば七里、浦は七浦七恵比須」

 ご丁寧に、宮島航路のフェリーの名も「ななうら丸」なのである。

 沖家室島周辺で捕る魚の名も興味深い。身体に槍をまとったミノカサゴをキヨモリと言う。コショウダイをトモモリ。そして平家蟹。壇ノ浦に至っては、鯛を平家魚といい平家に礼を尽くして正座をして釣るという。源氏の名をつけた魚はいない。つまり、ここは平家びいきなのである。世の中にはチョー美男子の源義経に対して清盛はいかにも憎々しい顔をして登場する。九郎判官義経、つまりなにかと判官(ほうがん)びいきに対してここは平家びいきなのである。

 さて、アビのことをこの島ではヘイケダオシという。これはどうやら源平合戦になぞらえたのではなかろうか。そして漁法のトリマワシとは鳥回しなのだろう。父に聴くと、棒の先に布を巻き付けてイカナゴを追い込むんだそうだ。いやいや、これもあとから分かったのだが、夜になると船でイカナゴをすくいにいくのである。明かりを灯すとイカナゴが寄ってくるのをすくうのであって漁法ではない。このトリマワシは他の意味でも使われる。「今度悪さをしたらトリマワシてやる」。懲らしめてやるという意味。語源はイカナゴをヘイケダオシが追い回すことから来たものだろう。

  東和町誌漁業誌に興味深い聞き取り調査が掲載されている。このトリマワシ漁がおこなわれるようになったのは明治八年(一八七五年)ころだという。今から一四六年前のことだ。イカナゴは冬になるとこの島の沖にある千貝瀬や大水無瀬小水無瀬、弥左衛門瀬などの砂州に群れを成してくる。ヘイケダオシもまたこれを好んで集まって来る。このとき島の漁師は一斉に漕ぎ出し、節分から夏のはじめころまでに一年分に相当する水揚げをした。だからヘイケダオシをとても大事にしたそうだ。ヘイケダオシも舟に慣れっこになっていて、手を伸ばしても恐れることはなかったという。

 ところがとんでもない事態が起こる。明治一九年月に大畠から海鳥を撃つ猟師が舟に載って現れた。その発砲音でヘイケダオシは逃げてしまった。毎年やってくるので島民はやめてもらった。そしたら今度は明治二十四年には近くの船越村と油宇村から鉄砲撃ちがやってきて、漁にならなくなった。この漁は二か月が山である。しかも荒れる日も多い季節でもあった。そこで、禁猟にするように県へ願い出て明治二十八年に禁猟区が確定した。山の猟師が舟で海にきて鉄砲を撃ち、漁場を荒らすとはなんちゅう物騒な話である。 当時、県に願い出た文書が東和町誌に掲載されている。読むとその切実さが伝わってくる。付録に載せた。

 このトリマワシ漁は昭和のはじめころまで続けられたそうだ。 広島県のホームページによると三〇〇年に及ぶアビ漁は広島県豊田郡豊島周辺にわずかに残っていたそうだが、昭和六十年代に消滅したと書かれてある。その原因はイカナゴの減少と指摘している。 その原因は明確であろう。イカナゴの生息地を潰したからである。瀬戸内の干潟を含む海岸線は埋め立てでほとんどが原型をとどめない。この島周辺でもイカナゴが湧くようにいた。子どものころの記憶でも、夏に潮が引いた砂浜を素足でこぶると足裏がゴニョゴニョとうごめいた。イカナゴが夏眠しているのだ。それが今ではほとんど見当たらない。春にはメバルの食いが立つ。イカナゴが回遊してくるからだ。漁師も夜になると船でイカナゴをすくいに行ったものだ。それがパタッといなくなったのは、片添ヶ浜のリゾート開発で、人口の浜にしたときと時期が重なると漁師は指摘する。それが直接の原因かどうかはわからないが、無関係ではあるまい。

 瀬戸内海の海砂採取はコンクリートなどの建設資材用に一九六〇年代から始まった。広島県では九十七年、区域外操業や許可量を無視した超過採取など違法操業の実態が次々と判明。瀬戸内海全体の採取量は約六億立方メートルと推計され、失われた海底の環境回復が大きな課題となっている。これを契機としてイカナゴの回遊が消滅した。

「やはり世の中で一ばん偉いのは人間のようでごいす」

  ~宮本常一著「梶田富五郎翁」~

 宮本常一の代表的な著作「忘れられた日本人」の中に収録された「梶田富五郎翁」。僕が一番好きな著作である。ここには明治九年に七歳で対馬に渡った富五郎少年の半生が描かれている。

 大島郡久賀(現在の周防大島町久賀)で生まれた富五郎少年は幼くして両親をなくした。みなしごとなった子どもはメシモライといって舟に乗らされたと言う。対馬についた富五郎はそのうち漁師になった。ところが島に溶け込むにはたいへんに苦労したそうだ。若者になるころは沖家室からも漁師がたくさん来るようになった。ブリをたまげるほど釣り、腕も良かったそうだ。こつこつと入り江を拓き、港をつくった。沖家室の漁師が来たころは四、五隻しかとめられなかった港が、大正時代には五〇〇隻もとめられる港を築くまで三十年かかったという。潮が引いたときに舟と舟の間に石を吊るし、潮が満ちてくると移動して石を落とす。こうして長い年月をかけて港を築いたという有名な話はこの中に収録されている。

 そして富五郎翁はこう言うのである 「やっぱり世の中で一ばん偉いのは人間のようでごいす」 。宮本常一が富五郎翁から話を聞いたのは昭和二十五年七月下旬とある。それから七十年余り。「いったい進歩とはなんであろうか」と言った宮本常一の言葉が胸に迫ってくる。 博覧会と称した巨大イベントはさながら砂上の楼閣であった。海は人の暮らす場所からはるか遠くに追いやられた。長く続いた伝統漁法は鉄砲で荒らされた。豊かな干潟は跡形もない。環境は破壊され、日本の沿岸漁業は風前の灯だ。人々の暮らしは便利にはなったが、果たして豊かな暮らしと言えるのだろうか。

 周防大島から対馬に渡った人々は三十年かけて港を築いた。今の人々は三十年かけて海そのものを壊した。

 「やっぱり世の中で一ばん偉いのは人間のようでごいす」と富五郎翁はいったが、一番バカなのも人間のようでごいす。

               (文/まつもと・しょうじ)

東和町誌漁業誌から 抜粋~

 「禁猟区域設置の歎願書 禁猟制札建設方ノ儀二願 本郡家室西方村ハ戸数二千余 人口一万余ニシテ  其生産職業ハ重ニ農トニシテ 専ラ漁業ヲ職 トスルモノ大字沖家室島全島民大字外入村及大字 地家室ハ各員三分ノ一ニシテ 漁業ニヨリテ生活 スルモノ千戸ヲ降ラス 然シテ其漁ヲナス漁場ヘハ   (中略) ヘイケダオシ鳥銃殺後ノ景況 明治十九年三月玖珂郡大畠村ノ猟師三四人来リ銃ヲ 以テ捕獲セリ ソレヨリヘイケダオシ島ノ来ラザルコト七日 同二十一年三月同村ヨリ来リテ捕獲ヲナサントセリ 其際ハ各漁業者一同事情を延ベテ相談シ 同二十四 年三月 本郡大字船越ノ猟者来リ 三四度発銃セ シニヨリ 種々事情ヲ陳述シテ相断ル 其節同島ノ 来ラザルコト五日 同二十四年三月重ネテ本郡油宇村ノ猟者四人来リテ 発砲捕獲ス 其節同島ノ来ラザルコト六七日   明治二十八年十月十八日  山口県大島郡家室西方村 大谷亀助  (漁業者全員の署名捺印 省略) 山口県知事 大浦兼武殿 禁猟区域の確定 本村大字沖家室島千貝礁及ヒ小水無瀬ヘ禁猟制札別 紙写ノ通下附相成候条 此段及報告候也  明治二十八年十一月廿日 家室西方村役場 大島郡役所 第二課御中」

 

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