まだ20代の頃の出来事である。
泳いだとき、大量の水が耳に流れ込んだ。そのあと、頭がクラクラして頭痛が始まった。日ごとに耳の奥がずきずきしだし、水が出るようになった。間違いない、中耳炎だ。
隣町に名医がいると聞いたので、友人に運転してもらってその耳鼻科に行った。
やはり中耳炎だと言われた。薬を耳穴に直接注入し、医者がなにやら風船のようなラッパを耳穴に押し付けてプシュ―っと吹き込んだ。すると、耳から鼻に空気が抜けたと思うと激しいめまいに襲われた。
「しばらく隣の部屋で横になっていなさい」
そういわれて、看護師に抱えられて横になった。しばらくするとめまいが収まってきた。
周りを見渡すと、きれいな女性が僕をみてニコっと微笑みかけた。僕は横になったまま、頭を下げて挨拶をした。きれいな白いレースを着た女性は、チリ紙を織っていた。織ったチリ紙を重ねて積み上げた高さは30センチくらい。それがズラリと囲むように並んでいた。その織ったチリ紙は、医者の診察台にも置かれていた。これで耳のまわりや、鼻から出た水を拭いていたのだ。
めまいも収まり、薬をもらい支払いの窓口へ行った。先ほど休んでいた部屋を見るとガランとしていた。あのきれいな女性も、重ねたチリ紙も跡形もない。
「あの、先ほどあの部屋で横になっていたと思うんですが別の部屋ですか?」
「いえ、あの部屋ですよ。あそこしかありませんから」
「でも、女の人がいましたけど」
窓口の人は一瞬ためらったように見えた
「いいえ、なにもありませんよ」
おかしい。確かにチリ紙を織る女性がいたのだが。
車に乗り、友人にそのことを話した。
「え、それってあの人?」
駐車場の前は先ほど僕が横になっていた部屋だった。先ほどの女性がレースのカーテンの隙間からこちらを見ていた。「さっきの女性だ」。
その女性はフッと笑ってスッと消えた。ゾーっとした。あれはきっと幽霊だ。
薬のお陰でずいぶんと良くなった。本当は薬が切れたら診察に行く予定だったのだが、仕事が忙しくて行けなかった。
ひと月くらいしてその耳鼻科へ行った。ところが駐車場は草が生えていた。医院は鍵がかかり、閉院しましたと張り紙があった。どうしたのだろう。先生になにか事情があったのだろう。しかたなく去ろうとして前を見ると、先生とあの女性が並んで窓からこちらを見ていた。そしてニコっと笑ったらスッと消えた。
それで納得できた。僕が最初にみた女性は、先立たれた先生の奥さんだったのだろう。そして、先生も後を追ったのだろう。僕は心の中でそっと手を合わせた。
※この話はフィクションです
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