鯛の里日記

周防大島町沖家室島の民泊体験施設・居酒屋の日常と、宮本民俗学の学びを書きます。

麻羅観音をたずねる

先日、仕事の用事で萩へ行った。その途中、俵山温泉近くに「麻羅観音」がある。県道281号線沿いにあり、山深いところにあるのかと思ったが意外に道路のすぐ傍だった。

境内に屹立する男のシンボル。少々ドン引きをした。その名も「麻羅観音」。だけど子授けや絶倫祈願のためだけではなく、実は哀しい歴史がある。しかも、この周防大島とも関係があり、我が沖家室島とも少し関わるのだ。

案内版にも刻まれているが今から500年前、時は戦国武将大内氏の時代。現在の中国地方を勢力下においていた大内義興は武力で隆盛を誇ったが、その息子義隆は文化で隆盛を誇った。山口市内に国宝の五重塔瑠璃光寺を建立したのも義隆だった。京の都にたいして山口県が西の京「西京(さいきょう)」と言われる所以である。

そんな間隙を突いて家臣の陶晴賢(すえ・はるかた)が謀反を起こして攻め入り、義隆は自刃した。その息子義尊は追ってから逃れるため、女の子に見せかけるため女装してかくまわれた。ところが追手に見つかり殺され、男子の証として性器を切り取られて持ち去られたのである。

それを不憫に思った里人が、この事件の合った場所に祀ったのが由来。だから決して笑いの取れるギャグでもなんでもなく、ここを訪れると悲しみが込みあげてくる。

さて、時は1555年。時代は織田信長が清州攻めから清州城へ移り、天下をものにする。大内氏の亡き後、同じく大内氏の配下であった毛利元就陶晴賢を討つために挙兵した。その合戦の舞台となったのが「厳島の合戦」。この合戦で、瀬戸内の海の勢力図が一変したという。

毛利方に味方した海賊が能島・因島・来島の三島村上海賊だった。一方、陶方についたのが周防大島の現在の浮島を根城とする海賊宇賀島(うかしま)衆だった。このころの海賊は独立した存在で、その都度どこへ付くか決めていたそうだ。その頃、我が沖家室島も大内氏の勢力下にあったのでこの島の海賊は桑原氏だったであろう。だから毛利方に付いたであろう。

この戦で陶は破れ、その戦の褒章で周防大島は来島海賊の領地となった。久賀の東郷山(トウゴン山)の頂上に村上通康(来島)の城があった。この合戦以降、村上海賊は瀬戸内の制海権を握ることになる。第一回木津川の合戦では、毛利水軍として信長軍を討ち破るまでの日本最強の海賊衆となった。

さて、時は流れ時代は豊臣の時代となる。1588年、秀吉は海の刀狩りというべき海賊禁止令を出す。これにより、海賊行為は禁じられて多くの海賊は島を後にする。この沖家室も無人島となり、海賊は上陸することになる。島には海賊浦という地名が今も残りそこで桑原氏が海賊をおこなっていたのだろう。桑原姓が対岸の地区に多いのはその末裔だろう。

その後、豊臣の跡目争いで1600年に関ヶ原の合戦が起こる。毛利が石田三成側に付き、徳川から防長二ヵ国に厳封させられてしまう。この時、周防大島を領地にしていた来島村上は徳川方に付いたため、毛利と袂を分かち三島村上は分裂をしてしまう。その後、来島村上は名を久留島と名乗り、現在の大分県豊後国に領地を与えられ森藩主となる。

ところが事故が起こる。1663年、藩主通春の息子通方(みちかた)が参勤交代のため通りがかったこの沖家室の瀬戸の暗礁に乗り上げて、11名全員が亡くなってしまった。沖家室大橋の下に灯台があるが、その岩礁である。安下庄の嶽山中腹にある普門寺の海賊の墓がこの一行の墓である。かつて周防大島を領有していたこの地で亡くなるとはもののあわれでもある。

話しは前後するが関ヶ原の合戦後、伊予の戦国大名河野氏も滅亡となる。その家臣だった石崎氏一行が、海賊禁止令で無人島になっていた沖家室に住んだのが1606年。その5年前の1601年、かつての村上海賊の大将であった能島村上武吉氏が周防大島東和町の和田に移り住んでいた。同じ河野家の配下であったことから、「沖家室が空いているから、こちらへ来ないか」と武吉が招いたのではないかと個人的には推測する。

石崎氏は武士に取り立てられ、後に分家が友澤と名乗る。毛利藩から、かつて海賊宇賀島衆の根城だった浮島と水無瀬島、安下庄三ツ松の一画を領地として与えられ開発に乗り出す。ちなみに浮島とは、誰も所有していないという浮いた島という意味だそうだ。

しかし、友澤家の浮島の開発は苦労したようだ。対岸の森村の人が塩を焼くための薪山としており、所有権をめぐって争いが絶えなかった。対岸の森村からみれば手の届くほどの距離であるのに、安下庄に属したのは争いを嫌ったものだ。

友澤家が毛利藩から拝領された安下庄三松は、大政奉還のときに藩へ返上された。浮島の土地も、そのころに返上したようだ。大水無瀬島の土地については、島嶼学会会長の長嶋先生の民俗調査をお手伝いするときに島の公図を取り寄せた。鯛の里の二階の部屋を埋めるほどの図面が広がった。石崎家の本籍は今も大水無瀬島にある。すでに亡くなられた当主に聞いた話だが、本籍地の地番が沖家室島になく役場に問い合わせたら水無瀬島だったそうだ。沖家室1番地はどこかと思ったら、石崎家の井戸だったそうだ。

陶の話に戻るが、山口市内に今も陶という地区がある。陶晴賢の姓もそこからきている。また、余談になるが戦後、国の入植政策に応募して陶を開墾したのは松本家だった。山間地の荒れ地だったそうだ。僕のいとこが今もその土地に住んでいる。

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