復元船、立派なものです。
朝鮮通信使は江戸時代に12回来日しており、そのうち11回は上関に寄港しました。この沖家室島の本陣・泊清寺にも逗留した記録が残されています。
通常、朝鮮通信使の使節団は約500名で構成され、それを護衛・先導する船団は、毛利藩(長州藩)船手組が指揮する約5,000名によって編成されました。また、使節団に同行する対馬藩主一行が約500名、さらに応接を担当する各藩の役人が約4,000名にのぼり、総勢1万人規模の大規模な随行団。
毛利藩が担当するのは赤間関(下関)から安芸蒲刈までの区間で、ここから広島藩の浅野家へと引き継がれます。復路では、このルートが逆になります。
赤間関から上関までは長府藩(毛利家の支藩)が、上関から蒲刈までは岩国藩(同じく支藩)が担当していたようです。ただし、水先案内については、往路・復路ともに周防大島村上家(船手組頭)が一貫して担っていました。(船手組=水軍)(村上家=かつての村上海賊の統領村上武吉一族)
このため、舸子(かこ:漕ぎ手)など5,000名に及ぶ護衛・案内部隊は、すべて村上家の支配下にある大島郡の人々で構成されていました。その内訳は、大島本島から2,500名、大島平郡から2,000名、そして室津半島端浦から500名が出動したとされています。
松本昭司への連絡はこちら
shouji108jp@gmail.com