鯛の里日記

周防大島町沖家室島の民泊体験施設・居酒屋の日常と、宮本民俗学の学びを書きます。

探検家・作家 岡村隆さん ご逝去

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観文研で宮本常一先生の薫陶を受け、宮本一門のおひとりであった探検家・作家の岡村隆さんが7月9日に急性白血病で亡くなられた。享年76歳。

文章とはこのように書くものだと教えられた、勝手ながら師と仰いだ。実際にお会いすることはかなわなかったけど、ネットを通じての交流はかけがえのない時間だった。

宮本常一著「土佐源氏」をひとり芝居で演じた坂本長利さんの訃報の際に寄稿された追悼文は、まさに圧巻であった。

心より、ご冥福をお祈りします。合掌。

(2024年3月22日Facebookに寄稿した岡村隆さん)
土佐源氏」、供養と和解の上演
 宮本常一の「土佐源氏」を一人芝居として生涯にわたって演じ続けてきた坂本長利さんが3月20日、94歳で亡くなったという。

 私がその舞台を初めて、そして一度だけナマで見たのは、もう50年ほども前、第300回の記念公演を、日本観光文化研究所の先輩たちに連れられて見に行ったときだった。百目蝋燭のゆらめく灯りと、被ったボロ茣蓙だけを小道具に、坐ったまま語られ、演じられる一人芝居の「大きさ」に圧倒された。以後は映像で見るたびに、また「土佐源氏」を読み返すたびに、ああ、もう一度、あの坂本さんの芝居を見なければ……と思っているうちに、時は過ぎ、とうとう二度と見ることは叶わなくなった。

 その坂本長利さんの一人芝居「土佐源氏」の主人公 (のモデルとされる老人) が実在した場所、つまり若き日の宮本常一が「橋の下の乞食小屋」(実際は水車小屋)の老人から話を聞き取った場所が、高知県梼原(ゆすはら)町の「茶や谷」だ。そして、その茶や谷と、「土佐源氏」発表後の宮本常一、さらに坂本長利との縁は、決して「良縁」ではなかった。「土佐源氏」のモデルとされた山本槌造という人物の、子や孫や縁者たちが、老人を乞食のように描いた宮本常一にも、演じる坂本長利にも、怒りの感情を持ち続け、地元では「土佐源氏」は長らく「タブー」のような存在となっていたのだ。

 じつは、坂本の芝居自体は1977年、梼原町三嶋神社で上演されたことがあった。しかしそれは、あくまでも集落外でのこと。それ以後も、たとえば山本槌造の孫の下元和敏氏の怒りを、佐野眞一が『旅する巨人』に書き、毛利甚八が『宮本常一を歩く』の取材中に、下元氏に対して死後の宮本常一との「和解」を説得したことなどは、これらの本の読者なら、すでにご存じの事実だろう。

 その「タブー」が破られ、「和解」がなされたのは、2007年のことだった。1000回公演を控えた坂本長利が、前年にNHK の取材陣とともに茶や谷を訪れ、山本槌造の墓参りをしたい、そして本人への供養を兼ねて本当の地元で「土佐源氏」を演じたい、と熱く語ったのだ。このとき、坂本の願いを聞き入れて墓に案内し、公演も受け入れようと決意したのは、下元和敏氏の長男、つまり「土佐源氏」の曾孫にあたる「子孫」で、それまで有機栽培の野菜作りや「竜馬脱藩の道」の整備などで地元起こしに尽力してきた人物だった。

 下元秀俊さん、法政大学山岳部のОBで、現町議でもあり、詳しくは省くが……、こうして、廃校となった東四万川小学校の講堂で行なわれた「土佐源氏」の公演と、そこに至る経緯、秀俊さんの思いは、私が編集した黒田仁朗著『ゆすはら物語』に収めてある。黒田さんに書かせるよう、私に勧めてくれたのは山折哲雄先生だった。

 梼原町では、その10年後の2017年にも「ゆすはら座」で坂本長利の「土佐源氏」は演じられた。今度は 梼原町制50周年と『土佐源氏』上演50周年. そして坂本長利さんの米寿を記念しての、「 おかえりなさい土佐源氏」と題する、親和に満ちた公演だった。ここでも下元秀俊さんの働きがあったことは言うまでもない。

 1941年に宮本常一が梼原を訪れて以来、紆余曲折を経て紡がれてきた「土佐源氏」をめぐるひとつの物語は、こうして大団円を迎えたのだが、それはいわば、「和解」と「供養」の物語でもあったように思われる。土佐源氏こと山本槌造や宮本常一はもちろん、ここに書いた下元和敏氏も佐野眞一毛利甚八も、みんなもう故人となった……。

 坂本長利さんの訃報に接して、ご冥福を祈りつつ、そんなことを次々と思い出してしまった。合掌。