鯛の里日記

周防大島町沖家室島の民泊体験施設・居酒屋の日常と、宮本民俗学の学びを書きます。

2000年進水の最後の昭運丸

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先日、大阪に住む同級生がひょっこり顔を出した。
平日でもあり、なんで!(^^)?

「アニキが脳梗塞で入院したんじゃ」

元気そうだったが、
いきなり来る病の怖さに唖然とした。
そういえばまわりにも脳梗塞で倒れた友人が増えた。
体つきから、ああやはりと思う人もいれば、
え‥なんで? という人もいる。

父が脳血栓で倒れたのは、
今から27年前の66歳。
脳の血管が詰まったのだ。
日頃から低血圧だと言っていた。
だから入浴は長湯をしないし、
寒い冬でも靴下を履かなかった。
高血圧の症状でもある脳溢血の心配はなかろうとタカとくくっていたら、
その逆に低血圧で血管が詰まるとは。

幸いにほとんど後遺症はなかったが、
漁に復帰できるまで回復するにはほぼ1年かかった。
それでも調子はイマイチ。
本品曰く、薬を飲むと調子が悪いと。
それから数年後、
本調子を取り戻したらしく、
今度は船を造りたいと言いだした。
73歳のときである。
父が申し訳なさそうに切り出した。

「船を造ろうと思うんじゃが、ええじゃろか?」
「好きにすりゃええが」

とそっけなく答えた。

その話はまたたくまに島中に知れ渡った。

「アンタはえらい。オヤジによう造らせた」

なんのことはない。
自分で稼いだ金をどう使おうか自分の勝って。

そして1年後、船は出来上がり、
フナダ(造船所)で船おろし(進水式)を迎えた。
写真がそのときのもの。
船はずいぶんと小さくなったが、
身の丈にあわせてそうしたのだという。
かつては島では一番大きな船だった。

記念写真を撮ったのは地家室の石井定さん。
船の前には漁師仲間が並んだ。
しかし、シャッターを切った石井さんも、
そして父以外の人もすでにこの世にはいない。

島の船おろしの際に流す曲は「軍艦マーチ」が恒例だった。
嫁が教育者であるのに義父が進軍ラッパを吹かすとは、
そりゃダメだと強引に反対し、
大漁唄い込みに切り替えた。

この日は今から19年前の2000年。
父の御年74歳。
父が造った新造船の台数はこれで14隻と、
島では群を抜く。
しかも、
小さなイサリ船や息子の僕用に造った船を入れたら17隻にもなるだろう。
それだけ稼いだのである。
そして、これが島で造られた最後の新造船となっている。

現在父はホームで暮らす。
昨今の記憶はほとんどなく、
ひたすら若いころの自慢話を繰り返す。
今もきっと記憶の中の波間に揺れながら、
鯛のふかせ釣りをいそしんでいるに違いない。
この春で93歳を迎える

※当時のことを書いたブログが残っていた。