鯛の里日記

周防大島町沖家室島の民泊体験施設・居酒屋の日常と、宮本民俗学の学びを書きます。

地元ロケ 「凪の島」

買い物がてらちょっと足を延ばして下松のMOVIX周南へ。

「凪の島」

いい映画だった。おすすめ。

月曜日なのに人の多いこと。夏休みも終わりということもあるのだろう、子ども連れが多かった。お目当てはアニメ。

「凪の島」は、館内一番大きな劇場。入るとほぼ埋まっている。といってもコロナ対策で席はひとつ空けて座るので、満杯だとしても席数の半分。だけど、僕の経験では最高の入数ではないか。しかもほとんど年配者。

この映画のロケは地元である下松市の笠戸島や柳井。そういうことだ。MOVIX周南のあるゆめタウンはこの下松にあり、笠戸島もほど近い。柳井も車で1時間もかからない。ほとんど地元の人だろう。

ネタにはあえて触れない。約1時間半の映画だけど、中だるみはまったくなかった。子役の演技が光る。脇をかためるベテラン俳優の演技はさすがに唸る。島が舞台なので、場面のほとんどが海辺。島っ子という設定なので、とにかくく子どもも大人も海へ飛び込む。

監督も山口県出身で、主役の新津ちせの母親も県出身。主題歌をつくったKitriの祖父母も県に住んでいたという。映像からも山口県への深い思いが伝わってきた。

夏の終わりを飾るいい映画だった。ヘタなネタバレをするより、公式サイトをご覧いただきたい。

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船と船の間を巨大魚がジャンプした

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たまたま目にとまった映画がおもしろそうなので、つい見入ってしまった映画「メグ ザ モンスター」。途中で過去に観た映画に気付いたが最後まで観てしまった!(^^;)!。

巨大サメとダイバーが格闘する、いわば何の教訓もないパニック映画だけど特撮がスゴイ。古代にいた巨大サメが実は人類がまだ未知の海域、フィリピン海溝のもっと下に存在をしていたという設定。大きさは20メートル以上。地球上の最大の生命体シロナガスクジラのクラス。

まあ、それはいいんですけど。小さいころを思い出した。小学生のころの夏休み、父に連れられて漁について行っていた。

大水無瀬島と小水無瀬島の間に10パイくらいの船が潮に向かって横一列に船をつなぐ。場所は割りばしに番号を書いたくじ引きで決める。ウチの船はいつも僕が引いていた。「子どものほうがマンがえかろう」と。マンとはくじ運のこと。だいたいいいクジを引いて、中央に陣取った。

狙いはハマチ。とはいえ10キロクラスだから子どもにとっては綱引き。針を外すときだけは父がする。尻尾で胸をはじかれたら間違いなく肋骨が折れる。父が股にハマチをはさんで針を外す。股間をはじかれたときは笑ろた。

潮が止まるとどの船も一休み。寝る人もいれば、機械場の上でいっぱい呑む人もいた。僕は退屈なので、海をのぞいていた。なんにもみえないけど、ワクワクした。すると父が叫ぶ。

「のぞくな。影を追ってガブっとやられるど」

まさか、と思いながら顔をひっこめた。過去にそんな話は聞いたことないが、ありえそうだと思った。ここはサメの多い海域。隣の船との間に巨大なサメがジャンプしたことがあった。イルカかもしれない。隣はキヒデのオッサンだったと思うが、呑んでいた一升瓶がガチャんと割れる音を覚えている。

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怪奇十三夜

僕は怪談が大好きで、特に夏になると観たくなる。

小学生のころだったか、お盆前にシリーズで「怪奇十三夜」が放送された。これを観るために、昼寝をしていたくらいだ。すべてが時代劇で、いわゆるヒュ~ドンドン ウ~ラメシヤ~~の世界。顔はただれて髪はうなだれ、手は前に垂れるあの独特のポーズ。最後は祟られて、もがき苦しんであの世へいくのだ。幽霊は女性で、夫の女性問題と相場が決まっているようだ。

その「怪奇13夜」全巻を持っている。そのほか、四谷怪談や番町皿屋敷などの名盤も揃う。

民泊修学旅行生が泊まったとき、平積みになった怪談DVDを観たいという。寝られんようになるぞと警告をするのだが、言えば言うほど観たくなるのが人のサガ。なので怪奇十三夜、これをすすめるが目もくれない。1位は「トイレの花子さん」、2位は「貞子」。

観終わったあと、蚊帳の中で寝た子が深夜に奇怪な現象に遭ったという。目を覚ますと蚊帳が揺れていて、その向こうをみるとおかっぱ頭の少女が座っていて首を振っていたそうだ。慌てて布団に潜り込んだ。朝、ひきつった顔で話してくれた。「だから言っただろう? 夜中に怖い目に遭うぞって」。

おっと、話がそれてしまった。怪談ナイトでお馴染の稲川淳二さんがコロナに感染したそうだ。おりしも全国ライブの真っただ中。向こう数公演の見送りが発表された。

9月24日の下関公演までには回復を願う。

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福田晴子著「宮本常一の旅学ー観文研の旅人たち」

福田晴子さんの著書「宮本常一の旅学―観文研の旅人たち」

やあ、嬉しいです。福田さんが周防大島へ最初に訪れたのは2014年10月4日、周防大島郷土大学で福本卓雄さんが講義をしたその日だった。あれから8年、当時から温めていた構想がようやく結実した。

1966年(昭和41年)、近畿日本ツーリストに設けられた旅研究の場「日本観光文化研究所(観文研)」が創設された。初代所長をつとめたのが宮本常一先生。先生の元に、なかばアウトローな旅好きの若者が集まった。

著者福田晴子さんは、観文研について次のように記している(帯)。

宮本常一のもと、「旅して学ぶ」という社会実験が「日本観光文化研究所(観文研)」で行われた。観文研には社会からはみ出して貧乏旅行を繰り返す若い人々が、類は友を呼ぶように、水が流れ込むようにして集まってきた。宮本は、その若者たちに幾らかの金と居場所を与えそして「さあ存分に歩け」と野に放ったのである。

さあ、これから読むのであるがこの本に登場する若き旅人たち。今は大方が70代となった。戦後の日本の民俗学会をリードした人ばかりだ。実は僕もこの先生方に多くのことを学んだ。いわば師匠なのだ。

まあ、それはオイオイ書くとして福田さんが周防大島に訪れたのは早稲田大学在学中に修士論文書くための調査だった。

その調査になにかしら役にたっていれば幸いなのだが、なにせ当日の講師が福本さんである。単なる勉強会で終わるはずがない。案の定講演後は大宴会となったのである。場所は沖家室の泊清寺離れ「くんさん荘」。福本自然農園がつくる米で仕込まれた澄川酒造の銘酒「環起」が並んだ。各地から訪れた人や地元の者と、夜を徹しての大交流会となったのである。あまり書くと差しさわりが出そうなのでこの辺とするが、またこのような楽しい交流会をしたいものだ。

さてさて、立派な本に仕上がった。監修が宮本千晴さんというのもスゴイ。監修者としてコメントをよせているが、まるで娘を世に出すような心情が伝わってきてあったかい。そして、本文には僕の名前も登場する。やあ、うれしいな。

Amazonでも扱われていますが、ご本人からはぜひ書店でお買い求めをとの希望。おすすめです。

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田舎あるある

【田舎あるある】

こう暑いと家の中ではパンツ一丁。ところが昼間はそうもいかない。

「松もっさ~ん、どがいで」

と、いきなり入って来る。昼間っから鍵を掛けようものなら裏口から現れる場合もある。玄関のカギをかけて風呂に入っていると、外から大声でおらぶ。

「松もっさ~ん」

「風呂じゃ~~~!(××)!」

「車はあるし、倒れちょるんじゃないかと思うた」

電話もそうだ。受話器をとるとイキナリ

「ど~かいの」

「誰じゃアンタは」

田舎あるある

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麻羅観音をたずねる

先日、仕事の用事で萩へ行った。その途中、俵山温泉近くに「麻羅観音」がある。県道281号線沿いにあり、山深いところにあるのかと思ったが意外に道路のすぐ傍だった。

境内に屹立する男のシンボル。少々ドン引きをした。その名も「麻羅観音」。だけど子授けや絶倫祈願のためだけではなく、実は哀しい歴史がある。しかも、この周防大島とも関係があり、我が沖家室島とも少し関わるのだ。

案内版にも刻まれているが今から500年前、時は戦国武将大内氏の時代。現在の中国地方を勢力下においていた大内義興は武力で隆盛を誇ったが、その息子義隆は文化で隆盛を誇った。山口市内に国宝の五重塔瑠璃光寺を建立したのも義隆だった。京の都にたいして山口県が西の京「西京(さいきょう)」と言われる所以である。

そんな間隙を突いて家臣の陶晴賢(すえ・はるかた)が謀反を起こして攻め入り、義隆は自刃した。その息子義尊は追ってから逃れるため、女の子に見せかけるため女装してかくまわれた。ところが追手に見つかり殺され、男子の証として性器を切り取られて持ち去られたのである。

それを不憫に思った里人が、この事件の合った場所に祀ったのが由来。だから決して笑いの取れるギャグでもなんでもなく、ここを訪れると悲しみが込みあげてくる。

さて、時は1555年。時代は織田信長が清州攻めから清州城へ移り、天下をものにする。大内氏の亡き後、同じく大内氏の配下であった毛利元就陶晴賢を討つために挙兵した。その合戦の舞台となったのが「厳島の合戦」。この合戦で、瀬戸内の海の勢力図が一変したという。

毛利方に味方した海賊が能島・因島・来島の三島村上海賊だった。一方、陶方についたのが周防大島の現在の浮島を根城とする海賊宇賀島(うかしま)衆だった。このころの海賊は独立した存在で、その都度どこへ付くか決めていたそうだ。その頃、我が沖家室島も大内氏の勢力下にあったのでこの島の海賊は桑原氏だったであろう。だから毛利方に付いたであろう。

この戦で陶は破れ、その戦の褒章で周防大島は来島海賊の領地となった。久賀の東郷山(トウゴン山)の頂上に村上通康(来島)の城があった。この合戦以降、村上海賊は瀬戸内の制海権を握ることになる。第一回木津川の合戦では、毛利水軍として信長軍を討ち破るまでの日本最強の海賊衆となった。

さて、時は流れ時代は豊臣の時代となる。1588年、秀吉は海の刀狩りというべき海賊禁止令を出す。これにより、海賊行為は禁じられて多くの海賊は島を後にする。この沖家室も無人島となり、海賊は上陸することになる。島には海賊浦という地名が今も残りそこで桑原氏が海賊をおこなっていたのだろう。桑原姓が対岸の地区に多いのはその末裔だろう。

その後、豊臣の跡目争いで1600年に関ヶ原の合戦が起こる。毛利が石田三成側に付き、徳川から防長二ヵ国に厳封させられてしまう。この時、周防大島を領地にしていた来島村上は徳川方に付いたため、毛利と袂を分かち三島村上は分裂をしてしまう。その後、来島村上は名を久留島と名乗り、現在の大分県豊後国に領地を与えられ森藩主となる。

ところが事故が起こる。1663年、藩主通春の息子通方(みちかた)が参勤交代のため通りがかったこの沖家室の瀬戸の暗礁に乗り上げて、11名全員が亡くなってしまった。沖家室大橋の下に灯台があるが、その岩礁である。安下庄の嶽山中腹にある普門寺の海賊の墓がこの一行の墓である。かつて周防大島を領有していたこの地で亡くなるとはもののあわれでもある。

話しは前後するが関ヶ原の合戦後、伊予の戦国大名河野氏も滅亡となる。その家臣だった石崎氏一行が、海賊禁止令で無人島になっていた沖家室に住んだのが1606年。その5年前の1601年、かつての村上海賊の大将であった能島村上武吉氏が周防大島東和町の和田に移り住んでいた。同じ河野家の配下であったことから、「沖家室が空いているから、こちらへ来ないか」と武吉が招いたのではないかと個人的には推測する。

石崎氏は武士に取り立てられ、後に分家が友澤と名乗る。毛利藩から、かつて海賊宇賀島衆の根城だった浮島と水無瀬島、安下庄三ツ松の一画を領地として与えられ開発に乗り出す。ちなみに浮島とは、誰も所有していないという浮いた島という意味だそうだ。

しかし、友澤家の浮島の開発は苦労したようだ。対岸の森村の人が塩を焼くための薪山としており、所有権をめぐって争いが絶えなかった。対岸の森村からみれば手の届くほどの距離であるのに、安下庄に属したのは争いを嫌ったものだ。

友澤家が毛利藩から拝領された安下庄三松は、大政奉還のときに藩へ返上された。浮島の土地も、そのころに返上したようだ。大水無瀬島の土地については、島嶼学会会長の長嶋先生の民俗調査をお手伝いするときに島の公図を取り寄せた。鯛の里の二階の部屋を埋めるほどの図面が広がった。石崎家の本籍は今も大水無瀬島にある。すでに亡くなられた当主に聞いた話だが、本籍地の地番が沖家室島になく役場に問い合わせたら水無瀬島だったそうだ。沖家室1番地はどこかと思ったら、石崎家の井戸だったそうだ。

陶の話に戻るが、山口市内に今も陶という地区がある。陶晴賢の姓もそこからきている。また、余談になるが戦後、国の入植政策に応募して陶を開墾したのは松本家だった。山間地の荒れ地だったそうだ。僕のいとこが今もその土地に住んでいる。

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畑中章宏著「廃仏毀釈 寺院・仏像破壊の真実」

 

6月18日に開催した郷土大学講義の畑中章宏先生が書かれた「廃仏毀釈 寺院・仏像破壊の真実」。サインをいただきました。これから読みます。

以下は現在の僕の認識です。ジャーナリスト鵜飼秀徳著「仏教抹殺」がベースになっています。

廃仏毀釈」とは、維新後の新政府から発布された「神仏分離令」。これをきっかけに全国で仏像や仏具などが破壊されるという廃仏毀釈運動が起こります。その名の通り「釈」とは釈迦を指します。新政府は廃仏を命じたわけではなく、神社と寺を分離するというもの。

ところが寺の支配に積年の恨みを持つ神官、地方権力者の忖度などが、運動体として暴動へとつながります。寺や仏像は壊され焼かれ、石仏は首をはねられ、僧はその地位を追われます。たった数年で全国の寺院は半分になります。これがなければ国宝もこの3倍はあっただろうと言われています。

もっとも酷いのは鹿児島県。すべての寺院が焼かれ、すべての仏像が壊され、仏具も廃棄されます。維新政府のリーダー薩摩藩であったこと、当時の藩主島津斉彬の命令によってなされました。

では、もうひとつの維新政府リーダーである長州藩はどうだったか。新政府の神仏分離令のとおり、社寺の整理統合をしたもので破壊行動は高杉晋作らの一部のはねあがりであったと言われています。そして、浄土真宗西本願寺派の僧侶の抵抗がかなりあったと言われています。全国的にも西本願寺派の僧侶の抵抗が激しかったようで、本山が政府に抗議した結果、破壊行動を扇動した役人を更迭させた例があったようです。廃仏毀釈が収まった以降、とりわけひどかった薩摩など、真宗がいち早く復興に取り組んだとも言われています。。

この周防大島ではどうだったか。東和町誌には詳しくは書かれていませんし、破壊行為があったとは伝わってきません。「明治政府の廃仏毀釈の運動のあおりをうけて廃寺となり合併したものの中には、禅宗寺院がもっとも多かった」(p.224)との記述があるのみです。

沖家室では、当時の泊清寺住職が本尊を背負って韓国に渡り布教につとめたという話が伝わっています。当時の檀家が破壊行為を行ったという話は、聞いたことがありません。

明治維新とはなんだったんでしょうね。そしてこの狂気がわずか数年で煽られてあっという間に全国規模に広がってしまったこと、それが日本人の気質とどう関係するのか。そして実際にその後昭和時代にいたるまで、次々と大きな戦争へとつながっていきます。国家神道化と王政復古は無関係ではないでしょう。明治から150年。祝賀ムードとは裏腹に、こうした隠された真実にも目を向ける必要性を感じます。

民俗学者畑中章宏先生からからみた廃仏毀釈。著書を読み、より深めていきたいと思います。

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