鯛の里日記

周防大島町沖家室島の民泊体験施設・居酒屋の日常と、宮本民俗学の学びを書きます。

高市大臣VS栗山監督にみる上司の鑑

www3.nhk.or.jp

高市大臣VS栗山監督にみる上司の鑑】

野球のことなんかナンノコッチャ、というくらいわからん僕でも村上選手のサヨナラヒットはコブシを振り上げた。2塁1塁の選手が走り抜け、二人目がホームベースを踏んだ瞬間球場はちゃぶ台をひっくり返したほどの大騒ぎ。

さあ、今朝のテレビのトップはこのWBC。かたや新聞紙面トップ記事はすべて岸田総理のウクライナ電撃訪問。ナンジャコリャ、この扱いは少々気の毒でもある。

まあそれはそれとして、あの場面をつくった村上選手は実のところ成績は振るわなかったなかったそうだ。そこへあの場面で起用する栗山監督。今朝のラジオ番組に出演をしていたがんばれタブチくん、栗山さんを大絶賛。1回戦から初番は寝ててもいい。終盤が監督の出番だ、というようなことを言った。村上選手を信頼しきった監督の度量。打て村上、お前なら出来る。行け、決勝に連れて行ってくれ。そしてついに村上・村神様まで押し上げたのだ。村上選手が仲間に囲まれて雄たけびを挙げた。こちらまでもらい泣きをしてしまった。

そして今日、投手大谷が最後の最後に力でねじ伏せて日本が世界王者に輝いた。

さあ、国会である。岸田総理が帰国して参院集中審議が始まる。野党が高市大臣に集中砲火を浴びせるだろう。

このタイミングだから高市大臣と栗山監督を比べてみるといい。

高市大臣は全部部下に責任を擦り付け、挙句は捏造と部下を犯人扱いにまでした。大臣が予算委員会を引き上げる時に委員長が「お待ちください」と引き止め、大説教。国会で委員長が大臣を叱る。こういう場面を僕はは初めて見た。

かたや栗山監督はどうか。最後まで選手を信じ続けて結果を出した。

上司としての鑑はどちらだろう。

誰の目にも明らかだ。

松本昭司への連絡はこちらへ

shouji108jp@gmail.com

周防大島の正式名は果たして屋代島なのか

国道から見た大多麻根神社(おおたまねじんじゃ)・周防大島最古の神社

周防大島の異名・屋代島】

周防大島の正式名称は「屋代島」である、という表記をよく見かける。果たしてそうだろうか。いつも疑問に思っていることだ。国土地理院では確かに正式名称としてヤシロジマとあるけど、その根拠は示されていない。なにより古くは正倉院からは「大島郡」として税が納付された記録も残されている。行政単位として、屋代島という名はない。

周防大島の中に屋代という字(あざ)があるからという人もいるけど、なぜそれが屋代島なのかとこれも根拠に乏しい。かつて荘園制だった時代は屋代荘・安下荘・島末荘があったから、屋代だけが正式島名というのも不自然である。

歴史上で一番古く「大島」の名が登場するのは古事記。日本神話に登場するイザナミノミコトが生んだ島の三番目が大島。ここにも屋代島の名前などない。屋代島という異名はのちに登場したのではないか。

古事記では大島を別名・大多麻流別(おおたまるわけ)と書かれてある。祭神として大多麻流別命(おおたまるわけのみこと)が大多満根神社に祭られている。大島大橋にほど近い丘にあり、周防大島最古の神社である。つまり神代の時代から「大島」なのである。国土地理院がなぜに正式名称を「屋代島」としたのか、どうも不可解。

全国各地に屋代という地名は多数ある。由来も多数。

さて、どこから紐解くか。それはやはり出雲の地ではないかと考える。周防大島出雲族が開いたと言われている。出雲から武蔵の国(横浜あたり)に渡り、朝廷からの命で周防大島に渡ってきた。そのためか、地名も出雲や武蔵にちなんだ名が残されている。

例えば

・旧大島町「横見」ー武蔵国横見郡

・旧「橘」町ー武蔵国橘樹郡

・美蒲(みがま)神社→御鴨の意味か?

・安高神社→アタカ→アダカエ(東出雲町の出雲郷はアタカエと読む)

松江市立出雲郷小学校(あだかえ小学校)

・嵩山(だけさん)→松江市に同名の神名火山(かんなびやま)がある。

・大見山→出雲市に、意保美(オホミ)小川と意保美神社

周防大島のミュージシャン・マウンテンマウスのマーシーのおじいちゃんは出雲の出身で、住んでいたところに嵩山があったという。

・沖家室島に伝わる「鰐地蔵」の伝説も、由来は出雲である。出雲の伝説「因幡の白兎」では鰐(フカ)に身ぐるみ剝がされたウサギが大国主命に助けられるが、沖家室では鰐(フカ)が神の化身となって溺れかかった少女を助ける。

屋代という地名も出雲にある。つまり、屋代は出雲から伝わってきたのではないか。

そのあたりをこれから探ってみようと思う。

松本昭司への連絡はこちら

shouji108jp@gmail.com

父の命日丸4年

この写真は2001年1月に共同通信の連載企画「どっこい生きていく―高齢化率日本一の町で」3回続きの(下) 生涯現役が誇りのお年寄り  タイとミカン、美味伝える」に掲載されたもの。撮影は上野敏彦記者。


3月5日は父の命日。2019年に旅立って4年が経ちました。はやいもんですね。

周りのお墓を見回すと、なんと石井正夫・タカコさんのお墓が真後ろに建っていました。昨年に奥さんが旅立たれ、ここに建立したんでしょう。今頃は草葉の陰でいっぱいやっていることでしょう。

ご先祖の音吉爺さまのお墓にも線香を。爺さんのひ孫や玄孫(やしゃご)も音楽で頑張りよるよ。(ง `▽´)╯ハッハッハ!!

境内の桜のつぼみもだいぶ膨らんできました。

松本昭司への連絡はこちらへ

shouji108jp@gmail.com

簡単な箸置きづくり

 

割りばしの袋を使った箸置きはおしゃれだったり、中には芸術かよと思わせるなどいろいろあります。

箸置きがないときの、箸袋を使った簡単な箸置きの作り方。

袋を人差し指に巻き付けて、ワッかになった淵を内側に織り込むと画像のように箸置きになります。

お願いですが、使用済の割りばしは袋に戻さないでくださいね。袋に入れるんだったら、半分くらい差し込んで袋を折っていただけるとありがたいです。一応点検はしますが、万が一のこともありますので。

松本昭司への連絡はこちらへ

shouji108jp@gmail.com

春一番 吹く

2月19日は春一番が吹いたそうですよ

 気象庁は19日、山口県を含む九州北部と四国で、「春一番」が吹いたと発表した。いずれも昨年は吹かず、2021年2月20日以来となった。気象庁によると、低気圧が発達しながら日本海を東寄りに進み、南風が吹いた。気温も上昇した。(中国新聞

ところでこの「春一番」という言葉、「民俗学者宮本常一は研究のため郷ノ浦町を訪れてこの『春一番』をいう語を採集し、1959年(昭和34年)に壱岐で用いられている語として『俳句歳時記』で紹介した。これをきっかけに、「春一番」は新聞などで使われるようになり、一般に広まったとされる」(wikipediaから)。

春一番」の語源は宮本常一先生だそうですねとたまに言われます。でも本当はこういうことだそうですよ。

我が島の周防大島沖家室島ではこれを「悪南風(わるばえ)」と言って恐れられてきました。

もうひとつ恐れられたお天気言葉に「秋ヤマジは人を喰う」

ヤマジは山からの吹き降ろしの風で、ここでは台風のことです。周防大島やその最南端の沖家室島でいうヤマジは四国山地をさすようです。台風が萩沖を通り、周防大島の真北に来るまでは進行方向への力が合わさって強烈な南風(ハエ・マジ)が吹きます。それを過ぎると西風に変わり、通り過ぎると北の風(アナジ)が吹いてほっとします。一番恐れられるコースです。

下の図は十数年前にTEM研究所(宮本常一記念館の設計者)の民俗調査を僕がお手伝いした、古老から聞きとった風の呼び名です。これは沖家室ですが、周防大島の各地もおそらく同じような呼び方をすると思います。聞きとりをしたお年寄りはほとんどあの世にいきましたから、貴重な記録だと思います。

松本昭司への連絡はこちら

shouji108jp@gmail.com

「福島菊次郎 あざなえる記憶」那須圭子著

福島菊次郎さんをして、「自分の立ち位置がわかる」と聞いたことがある。

もう20年以上も前、下関の写真館を訪ねた。挨拶をすると、こんな至近距離と思うほど前に立った。一歩前へ、これがプロのカメラマンなのかと思った。

「僕はね、不器用だから同じところを何回も足を運ぶんだ。でも最近の人はいいカメラを持って、一回撮ったらいい写真が撮れたと勘違いしちゃうんだ」

憲法改悪反対、原発反対、労働組合運動もやった。でも、何にもしなかったほど何も変わらなかった。この国はもう一度壊れないとダメなんじゃないか」

ひとつひとつの言葉が文字になって記憶に刻まれた。こんなことは初めてだった。

那須圭子さんの著書

「福島菊次郎 あざなえる記憶」

那須さんもまたカメラがコトバとして刻まれる人だ

松本昭司への連絡は

shouji108jp@gmail.com

周防大島郷土大学2022年度講座 畑中章宏先生

周防大島郷土大学2022年度講座
〈2022年の宮本常一〉全3回
第3回 宮本常一SDGs
講師:畑中章宏
日時:2023年1月29日(日)14:00から
会場:東和総合センター大ホール(山口県大島郡周防大島町平野269-44)
受講料:1,000円(18歳以下は無料)
主催:NPO法人周防大島郷土大学
畑中章宏より:
 近年、日本社会のさまざまな現場や場面で「SDGs」(持続可能な開発目標)の実現が課題とされ、重要視されています。そんな時代に、共同体の生活に根差しつつ公共性への道を探り続けてきた民俗学は具体的なヒントを与えてくれます。
 なかでも宮本さんの民俗学は、民俗調査・民俗研究と農村指導や離島振興に結びつけた点で、持続可能性を追究した先駆的な仕事でした。
 たとえば国連の採択したSDGsの17の目標のうち〈貧困をなくそう〉〈飢餓をゼロに〉は、『開拓の歴史』『甘藷の歴史』などの問題意識と重なります。〈働きがいも経済成長も〉は『生きていく民俗』や『ふるさとの生活』の主題と不可分ではなく、〈産業と技術革新の基盤をつくろう〉は著作集中の『産業史三篇』と関わるものであります。
 〈海の豊かさを守ろう〉〈陸の豊かさも守ろう〉は宮本さんが最も注力した課題であり、非農耕民や移動の民の生活に取り組んだ『海に生きる人びと』『山に生きる人々』が参考になるでしょう。〈住み続けられるまちづくりを〉は『民俗のふるさと』や『日本の村』と重なり合う重要なテーマでした。
 〈人や国の不平等をなくそう〉〈平和と公正をすべての人に〉は『日本の離島』『離島への旅』『日本の中央と地方』などをとおして、宮本さんは実践的な活動に結びつけています。〈ジェンダー平等を実現しよう〉〈パートナーシップで目標を達成しよう〉という課題は、『忘れられた日本人』『庶民の発見』『女の民俗誌』の底流に横たわっているのではないでしょうか。
 今回は、サステナブルな社会の実現を模索してきた宮本さんの仕事が、SDGsを先取りしていたことを学びなおす機会にしたいと思います。
メール:suooshima.kyododaigaku@gmail.com
090-4654-7797(山根)