【民俗学の旅から~垰①~】
宮本常一の代表作でもあり、自伝的エッセイ「民俗学の旅」。この中に、幼少のころ祖父に連れられて生家の長崎(道の駅付近の地区)から三蒲(みがま/大島大橋付近の地区)の地蔵参りに歩いて行ったことが書かれている。当時常一少年はヘルニア(腰痛)を患っていて、それを治してくださる日限(ひぎり)地蔵へのお参りに約16キロを歩いた。
当時は山中を歩いた。それがメイン道路だったのだろう。今の国道は最近できたものだ。
(文中)
牛丸木の垰(たお)を越え油良。
※道の駅とうわから西に進み、屋根に魚と大きく書かれた島津鮮魚店から西の山をみるとくぼみのある山がみえる。牛丸木の垰(たお)がそれだろう。油良は道の駅から大島大橋に向かい、坂を上って降りた霊場59番札寿源寺付近。
前方のくぼんた所が牛丸木の垰(たお)だろう
(文中)
中山の垰(たお)を越えて土居、日前(ひくま)
※土居・日前は、安本医院やセブンイレブンの付近
(文中)
それから海岸を歩いてまた垰(たお)にかかる
※おそらくジャムズガーデンあたりの浜から白石地区あたりまでだろう
左がジャムズガーデン ↑
(文中)
また垰(たお)を歩く。垰(たお)の上ではたいてい一息入れる。
※おそらく白石地区から登るのであろう。白石地区は喫茶店「みかんの木」がある付近。
白石地区からみたトウゴンタオ ↑
(文中)
第三の垰(たお)をトウゴンタオと言ったが、その上はたいへんに見晴らしがよくて、そこから西方に久賀の町が見おろされる。
※ジャムズ店の前を通り、国道へ出てしばらくするとヤシの木があるカーブをすぎると前方に山が見える。これが東郷山。トウゴンとは東郷が訛ったもの。頂上にはかつては村上海賊の城があった。トウゴンタオは白石地区からも見える。お尻のようにくぼんだ山道がトウゴンタオ。これは久賀方面からもよく見える。添付した画像がそれである。空からの画像も載せた。常一少年はここから久賀の町を見下ろしたのであろう。
トウゴンヤマ(東郷山)/周防大島町久賀 ↑
久賀から見たトウゴンタオ ↑
空からみた久賀の町並 白い矢印がトウゴンタオ/周防大島町久賀*1
<~垰~>。
今は垰(たお)という言葉は使われなくなり、峠(とうげ)を使う。土ヘンと山ヘンの違い。僕の父の時代は、今の峠を垰と言った。
これはここだけではないようだ。以前に初代の宮本常一記念館の学芸員木村哲也くんと、広島県三次市に伝わる稲生もののけ録展示室を訪ねたときのこと。広島県可部町から隣町の吉田町へかかる急峻な上根峠(かみねとうげ)がある。日本百名峠のひとつ。今でこそ広い道になったが、僕が20代のころは狭くて急カーブで怖い峠越えだった。ハンドル操作を誤ると奈落の底。その峠に「峠の茶屋」があった。そこで休憩をすることにした。店の中の女性に聞いた。
「昔の峠(とうげ)越えは命がけだったでしょう?」
「昔はこの垰(たお)越えはたいへんでした。雪も多くてね」
「垰(たお)越えですか?」
「そうそう。昔は垰(たお)越えという言うとりました。それが峠(とうげ)越えと言うようになって、私らは峠の漢字をそのとき始めてみました」
では、「垰」と「峠」はどう違うのか。ネットで調べてみると、
「峠」とは「山を上がったり下がったりする道の境目」を意味していて、「垰」は「連なった山の峰と峰の間にあるくぼんだ場所・鞍部」を意味。
さらには毛利藩の書物にこんなのを見つけた。
「防長地下上申」の都濃郡温見村(下松市)の条に、
「垰(タオ)と申すは左右より登り申すゆえ垰と申し伝え候事」
※「地下上申」とは防長両国諸郡の萩本藩領はもとより、各支藩領もこめて、各村落から萩藩府の絵図方頭人・井上武兵衛宛に上申した村勢概要、いわゆる村明細書である。
実は僕の住む沖家室にも垰(たお・たわ)という丁名がある。今の書類には峠と書いているのを見かけるが、正確には垰丁(たお・たわじょう)である。海に面しているのになぜ垰丁なのか? それは次回へ。合わせて常一少年の日限地蔵参りを続けます。
(次回につづく)
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