鯛の里日記

周防大島町沖家室島の民泊体験施設・居酒屋の日常と、宮本民俗学の学びを書きます。

比叡山焼き討ち その時大島海賊は

比叡山焼き討ち その時大島海賊は】

織田信長による延暦寺焼き討ちから450年。今月の12日に大津市比叡山延暦寺で行われた法要に、織田信長明智光秀の子孫が初めて参列した記事を読みビックリした。よくもまあケンカにならなかったこと。

「貴様ら、信長を討ったことを今も正しかったと思うか」

「なにを抜かすか。信長の理不尽な振る舞いこそが原因だ」

「やかましいわ。そこへ直れ」

まさか今の時代になって子孫がやりあうことはないだろうけど、内心は穏やかではなかろう。

この時代というのは激動の時代。信長の全国制覇一歩手前、家臣の明智光秀によって信長が殺害される。これが本能寺の変。その三日後に明智光秀羽柴秀吉に討たれた。それが世に言う三日天下。そしてあれよと言う間に豊臣政権が成立して全国統一を成し遂げる。その豊臣政権もわずか13年で消滅する。消滅する3年前の1600年に関ヶ原の戦いによって、あれよあれよと徳川家康の時代になる。延暦寺の焼き討ち1571年からわずか30年である。

延暦寺の焼き討ちの時代、周防大島はというとすでに大内氏から毛利氏の勢力下にあった。山口県を中心に岡山付近まで大内の勢力下にあった。ところが家臣の陶晴賢に殺されてしまう。その陶を破ったのが大内の盟友だった毛利だった。これが厳島の合戦という。

周防大島の強い宇賀島海賊(現在の浮島)が陶方に付いたため毛利に滅ぼされた。その見せしめに島の木を切って丸裸にされ、広島城の築城に木材にされたいう。その時にこの沖家室島に海賊がいた筈だが、その存在はわからない。恐らくは大内の勢力下で大島海賊桑原氏の関係だろう。当時の海賊はまだ指揮系統が一本化されておらず、独立した部族のような存在だったといわれる。だから戦があればその都度どこに着くかを選択したようだ。

厳島の合戦が毛利の勝利となった。その毛利への援軍が村上海賊だったため、周防大島は村上氏の領地となった。そのときが1555年。

瀬戸内の制海権を握った村上海賊は、毛利軍とともに信長と一戦を交える。それが大阪の木津川口の戦いだった。

比叡山の焼き討ちにつながるこの合戦は、信長が比叡山を根拠地にした武装一向宗を抑えるものだった。それに待ったをかけたのが中国地方の覇者毛利元就だった。そして迎えたのが第一回木津川口の戦い。これは毛利が勝利を収めた。その勝利をもたらしたのが村上海賊衆だった。あの信長を負かすとはすごい力である。

瀬戸内海を支配した村上一族。信長との戦いにはこの周防大島の海賊も駆り出されたに違いない。といっても兵の多くは普通の漁師だった言われている。

でも二回目の合戦は負けてしまう。ここに鳥羽の海賊衆九鬼一族が登場する。

この話がまた長いので、この次に。

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