鯛の里日記

周防大島町沖家室島の民泊体験施設・居酒屋の日常と、宮本民俗学の学びを書きます。

畑中章宏著「廃仏毀釈 寺院・仏像破壊の真実」

 

6月18日に開催した郷土大学講義の畑中章宏先生が書かれた「廃仏毀釈 寺院・仏像破壊の真実」。サインをいただきました。これから読みます。

以下は現在の僕の認識です。ジャーナリスト鵜飼秀徳著「仏教抹殺」がベースになっています。

廃仏毀釈」とは、維新後の新政府から発布された「神仏分離令」。これをきっかけに全国で仏像や仏具などが破壊されるという廃仏毀釈運動が起こります。その名の通り「釈」とは釈迦を指します。新政府は廃仏を命じたわけではなく、神社と寺を分離するというもの。

ところが寺の支配に積年の恨みを持つ神官、地方権力者の忖度などが、運動体として暴動へとつながります。寺や仏像は壊され焼かれ、石仏は首をはねられ、僧はその地位を追われます。たった数年で全国の寺院は半分になります。これがなければ国宝もこの3倍はあっただろうと言われています。

もっとも酷いのは鹿児島県。すべての寺院が焼かれ、すべての仏像が壊され、仏具も廃棄されます。維新政府のリーダー薩摩藩であったこと、当時の藩主島津斉彬の命令によってなされました。

では、もうひとつの維新政府リーダーである長州藩はどうだったか。新政府の神仏分離令のとおり、社寺の整理統合をしたもので破壊行動は高杉晋作らの一部のはねあがりであったと言われています。そして、浄土真宗西本願寺派の僧侶の抵抗がかなりあったと言われています。全国的にも西本願寺派の僧侶の抵抗が激しかったようで、本山が政府に抗議した結果、破壊行動を扇動した役人を更迭させた例があったようです。廃仏毀釈が収まった以降、とりわけひどかった薩摩など、真宗がいち早く復興に取り組んだとも言われています。。

この周防大島ではどうだったか。東和町誌には詳しくは書かれていませんし、破壊行為があったとは伝わってきません。「明治政府の廃仏毀釈の運動のあおりをうけて廃寺となり合併したものの中には、禅宗寺院がもっとも多かった」(p.224)との記述があるのみです。

沖家室では、当時の泊清寺住職が本尊を背負って韓国に渡り布教につとめたという話が伝わっています。当時の檀家が破壊行為を行ったという話は、聞いたことがありません。

明治維新とはなんだったんでしょうね。そしてこの狂気がわずか数年で煽られてあっという間に全国規模に広がってしまったこと、それが日本人の気質とどう関係するのか。そして実際にその後昭和時代にいたるまで、次々と大きな戦争へとつながっていきます。国家神道化と王政復古は無関係ではないでしょう。明治から150年。祝賀ムードとは裏腹に、こうした隠された真実にも目を向ける必要性を感じます。

民俗学者畑中章宏先生からからみた廃仏毀釈。著書を読み、より深めていきたいと思います。

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