沖家室出身で千葉県に住む西村堅二さんからお手紙をいただいた。小さいころからの思い出が綴られていて、とても貴重な記録。いつか論点ごとに紹介したいと思う。
宮本常一先生もこの五輪塔は東和町誌でも触れていた。これは各論「石造物」でも名古屋大学の印南敏秀先生が調査している。どうやらこの五輪塔は国東半島きたものであろうと書いてある。そしてかなりの豪族であったのではないかということだ。これを粗末にすると島に馬鹿が生まれるという言い伝えがある。それは我々のことであろうか。
この沖家室に人が住み始めたのが1606年。関ヶ原の合戦で伊予の河野氏が滅亡しその家臣団がこの沖家室に渡ってきた。それまでは無人島だった。1588年(天正16年)に豊臣秀吉によって海賊禁止令が出された。その18年間が無人島。それまでは人が住んでいたのだろう。海賊が住んでいたのであろうことは伝えられてきた。島の裏側に海賊浦という地名が今でも残っている。当時の勢力図からは、大内氏の支配下にあったことから桑原氏がこの海賊浦で海賊をしていたのであろう。
しかし、それ以前にどのような人が住んでいたのか定かではない。ひとつかすかな手がかりがある。もう10年くらい前に亡くなったが、僕の親戚に石井正男という歴史の好きな爺様がいた。その爺様から聞いた話では、愛媛県西予市の下泊(しもどまり)というところから訪ねてきたという。そこは古くから加室浦とも言ったそうだ。この沖家室も古くは加室と言った。南北朝動乱の時代にこの沖で後醍醐天皇軍と足利尊氏軍が戦闘となった。それを加室合戦という。同じ加室という地名からつながりがあるのではないかということであった。それならばと石井の爺様たちが下泊を訪ねたが、この沖家室となんとなく似ているというのだ。しかし、確証を得るのは再調査が必要ということになった。そうするうちに爺様が死んでしまった。この春にでも訪ねたいと思ったらコロナだ。
西予市の加室浦のことはまた別に書きたい。
話は戻る。この五輪塔のあるところを東和町誌は「中三迫」とある。これはなんと読むのだろう。ナカミサコ…? だいいちこんな地名があるのだろうか。橋のない時代に島と対岸の佐連の間を航行した瀬戸丸の船長西村貞勝さんが生前に、後の人のためにと山や磯の名を記したものがある。メモの中央を見ると、オォッ、あるある。三迫という字が見える。場所も西村堅二さんの図とも一致する。ただ、なんと読むのだろう。泊清寺新山住職に聞いてみた。
「泊清寺の泊は港という意味もある。迫は泊と同じではないか。つまり中三迫はナカミドマリではないかと思います」
なるほど明快だ。この沖家室では今でも区割りを丁(じょう)名で表す。橋が架かっている集落から鼻丁 岡丁 刈山丁 垰丁 向丁 中三丁 南丁。中三丁をナカミジョウという。ちょうどこの鯛の里の付近が中三丁の端っこで南丁との境にある。三迫は中三丁の中ほどにある。つまり、中三迫は中三丁の三迫(ミドマリ)ということであろう。