鯛の里日記

周防大島町沖家室島の民泊体験施設・居酒屋の日常と、宮本民俗学の学びを書きます。

七七日(しちなぬか/四十九日) 忌中明け

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【忌中明け】
きょうが七七日(しちなぬか/四十九日)。
四十九日法要は葬儀の翌日の納骨のときに済ませていたのですが、
僕の気持ちの区切りとして、
お寺から下がっていただいて、
拝んでいただきました。
ありがとうございました。
【中陰和讃】
七七日まもる弥陀如来
仏前供養のその徳で
屋の棟はなれて極楽へ
導きたもうありがたや
造りし煩悩消滅し
南無阿弥陀仏 阿弥陀仏

ようやく今日、
父は極楽浄土に到着です。
良かったね。

仏教では、
人が死んで次の生をうけるまでの間を「中陰」あるいは「中有」といいます。
四十九日をもって満中陰とします。

浄土宗では死後はすぐに浄土へと向かうそうですから、
浄土に辿りつくまでに七つの関所があり、
苦行を課す中陰和讃の世界とは違います。
ただ、檀家の間で定着してきたことから、
和讃を唱えることになったようです。

極楽浄土が存在するのか、
あるとすればどういう世界なのか、
地上に住む私たちには知る由もありません。

フランスの哲学者デカルトの言葉です。
私という存在は、
私が有ると思うから有ると説きました。

お釈迦様はこう説きました。
「われは考えて、有るという迷わせる不当な思惟の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ」。

分かりやすい例えは、
「神は存在するのか」と尋ねられたら、
デカルトで言えば
「神は思う、ゆえに神あり」ということになります。
これを哲学用語でいえば観念論。

日本で言えば「善の研究」で有名な西田幾多郎
「意識現象が唯一の実在である」
と説きます。
ここまでくると、
ワタシャ頭が狂いそうです。

一方、哲学者マルクスは「我あり、ゆえに我思う」と説きました。
私が存在しない限り、
思うことはありえない。
これからいくと、
人は死に、
存在が無くなれば、
思うことはない。
これを哲学用語で言えば唯物論

吾輩は猫である」の中で、
主人公の猫が
「人間は長い歴史の中でこんな当たり前のことしか思いつかない愚かな生き物だ」
と嘲笑います。
ハッハッハ!(^^)!

がばいばあちゃんは明快です。
「生きちょるだけで丸儲け。ガッハッハ!(^^)!」。

「人間は一本の葦にすぎず自然のなかで最も弱いものである。だがそれは考える葦である。人間は孤独で弱いが,考えることができることにその偉大と尊厳がある」。

「思うから有るのか」
「有るから思うのか」。
この狭間で人は生きていくのでしょう。

あなたはどう思いますか。
僕は、あの世が存在するとしたら、
地獄よりも極楽がいい。
今、僕はまだ生きていますから、
僕の心の中に父も母も生きています。

【中陰和讃】全文
初七日まもるは不動なり
くらやみ峠のあてなしと
中陰途切れず称えやり
光明たよりて越えるなり
二七日まもるは釈迦如来
火ふり峠をさか落とし
おのおの供えし手向けある
水をたよりに越えるなり
三七日まもるは文殊菩薩
うづまき峠はてしなと
中陰途切れず供えある
日の立ちほどで越えるなり
四七日まもる普賢菩薩
生津の川が現われて
死してめしたる帷子の
六字の名号で越えるなり
五七日まもる地蔵菩薩
なみだを流す三途川
追善菩提の功徳にて
舟に乗りつつ越えるなり
六七日まもる弥勒菩薩
六道の辻に踏み迷い
自力の心を振り捨てて
他力の一つで超えるなり
七七日まもる弥陀如来
仏前供養のその徳で
屋の棟はなれて極楽へ
導きたもうありがたや
造りし煩悩消滅し
南無阿弥陀仏阿弥陀仏
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四十九日まで、
お付き合いいただいて、
ありがとうございました。
サクラの花もすっかり新緑にかわりました。
これで忌中明けです。
役所関係や遺品整理もひと段落つき、
やっと仕事に復帰できます。
引き続きご指導賜りますよう、
お願い申し上げます。
    松本昭司