鯛の里日記

周防大島町沖家室島の民泊体験施設・居酒屋の日常と、宮本民俗学の学びを書きます。

きょうは仲秋の名月 満月は8年ぶり

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十五夜のお月さんを満月。旧暦8月15日は仲秋の名月と呼ばれていて、その日がきょうの9月21日に当たります。とはいえ、月が地球を回るの実際の時間は、暦の上とは微妙なズレがあります。だから月齢の15日が必ずしも満月とはなりません。それがピタっと重なるのは8年ぶりなんだそうですよ。

お天気も雲は出そうですがなんとかなりそうですかね。

でも日本人て十五夜が観られなくても、いろんな月の形に名前を付けて楽しむことを考えました。

月が夜空に現れるのは一日に50分ほどズレて行きます。1日ごとに満月から徐々に欠けて行きます。その変化を楽しむことを考えました。

16日目は月が出てくるのをいざよう(ためらっている)ようだとして、「十六夜」と書いていざよいの月。

17日目はさらに遅いため、まだかまだかと立って待つ「立待月」

18日目は、待ちくたびれて座ってしまうので「居待月」

19日目は、もう床に入って待つから「寝待月」

20日目は、夜も更ける頃なので「更待月」

そして、26日目には夜明け(有明)の空に昇るから「有明月」

天気が良くなくてお月さんがきれいに見られなくても、いろんな月を楽しみましょうね。

tenki.jp

デュオ「風」の大久保一久さんが亡くなった

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「22才の別れ」「君と歩いた青春」などのヒットがある、伊勢正三さんと大久保一久さんのデュオ「風」の大久保さんが亡くなった。71歳とは早すぎる。脳の血管障害を患っていたという。

風が活躍した時代は僕が20代前半だった。もう40年も前だからウチの子どもたちも知らないだろう。だけど「22才の別れ」くらいは知っているだろう。

伊勢さんはもともとかぐや姫のメンバーで、今も歌い継がれている数々の名曲の多くは伊勢正三さんがつくった曲。例えば「なごり雪」もそうだし「妹」もそう「赤ちょうちん」も。その伊勢さんが大久保さんと組み、「風」としても数々の名曲を残した。

僕の手元には今も楽譜本がある。当時らしく二人とも長髪。大久保さんは主にコーラスだったが、顔が可愛いとそっちの方がウケた。確かに遠目ではそう。だからあまりアップの写真はない。

1977年、「ほおづえをつく女」が大ヒットしたこの年。広島郵便貯金ホール(現・上野学園ホール)でコンサートが行われた。僕はチケットを求めて一番乗りで広島楽器センター(ヤマハ広島楽器店)に乗り込んだ。そして真ん前の真ん中の席をゲット。もともと音楽活動でこの店にはなじみがあってそれも有利だった。

ライブは二人だけのシンプルなもので少々物足りなかったが、数々のヒット曲に酔いしれた。伊勢さんは割と音を外す。これもやはりライブならでは。

大久保さんは元はグループ「猫」のメンバーだった。レコードも持っている。今の若者に「猫」と聞いたってわからんだろうと思ったら、民泊で泊まった高校生が「猫の『雪でした』好きです」と言ったのにはびっくりした。そうか、今の若者はネットでいろんな曲が聴けるからね。

そのコンサートの会場だけど、まわりはほとんど女性だった。お目あては大久保さんだった。大久保さんの動きにいちいちキャーキャーうるさかった。それはもうアイドルそのものだった。

改めて楽譜本をめくると、この曲もこれもとたくさんの名曲を残していた。僕の青春時代になくてはならない風の曲。

たくさんの思い出をありがとう

大久保一久さんへ

ご冥福をお祈りいたします。

比叡山焼き討ち その時大島海賊は

比叡山焼き討ち その時大島海賊は】

織田信長による延暦寺焼き討ちから450年。今月の12日に大津市比叡山延暦寺で行われた法要に、織田信長明智光秀の子孫が初めて参列した記事を読みビックリした。よくもまあケンカにならなかったこと。

「貴様ら、信長を討ったことを今も正しかったと思うか」

「なにを抜かすか。信長の理不尽な振る舞いこそが原因だ」

「やかましいわ。そこへ直れ」

まさか今の時代になって子孫がやりあうことはないだろうけど、内心は穏やかではなかろう。

この時代というのは激動の時代。信長の全国制覇一歩手前、家臣の明智光秀によって信長が殺害される。これが本能寺の変。その三日後に明智光秀羽柴秀吉に討たれた。それが世に言う三日天下。そしてあれよと言う間に豊臣政権が成立して全国統一を成し遂げる。その豊臣政権もわずか13年で消滅する。消滅する3年前の1600年に関ヶ原の戦いによって、あれよあれよと徳川家康の時代になる。延暦寺の焼き討ち1571年からわずか30年である。

延暦寺の焼き討ちの時代、周防大島はというとすでに大内氏から毛利氏の勢力下にあった。山口県を中心に岡山付近まで大内の勢力下にあった。ところが家臣の陶晴賢に殺されてしまう。その陶を破ったのが大内の盟友だった毛利だった。これが厳島の合戦という。

周防大島の強い宇賀島海賊(現在の浮島)が陶方に付いたため毛利に滅ぼされた。その見せしめに島の木を切って丸裸にされ、広島城の築城に木材にされたいう。その時にこの沖家室島に海賊がいた筈だが、その存在はわからない。恐らくは大内の勢力下で大島海賊桑原氏の関係だろう。当時の海賊はまだ指揮系統が一本化されておらず、独立した部族のような存在だったといわれる。だから戦があればその都度どこに着くかを選択したようだ。

厳島の合戦が毛利の勝利となった。その毛利への援軍が村上海賊だったため、周防大島は村上氏の領地となった。そのときが1555年。

瀬戸内の制海権を握った村上海賊は、毛利軍とともに信長と一戦を交える。それが大阪の木津川口の戦いだった。

比叡山の焼き討ちにつながるこの合戦は、信長が比叡山を根拠地にした武装一向宗を抑えるものだった。それに待ったをかけたのが中国地方の覇者毛利元就だった。そして迎えたのが第一回木津川口の戦い。これは毛利が勝利を収めた。その勝利をもたらしたのが村上海賊衆だった。あの信長を負かすとはすごい力である。

瀬戸内海を支配した村上一族。信長との戦いにはこの周防大島の海賊も駆り出されたに違いない。といっても兵の多くは普通の漁師だった言われている。

でも二回目の合戦は負けてしまう。ここに鳥羽の海賊衆九鬼一族が登場する。

この話がまた長いので、この次に。

www3.nhk.or.jp

サザエ 半ナマ刺身

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My居酒屋かいて~~ん!(^^)!

サザエの半生刺身

側がふっくら

中がガシっ

少し苦みがあって

かめばうま味がジュっと出る

つぼ焼きの次に好きな食べ方

皆さん

瀬戸内のサザエはうまいよー

今はアサリよりも手ごろに食べられますよ

光市塩田 雑炊の名店

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僕がよくお邪魔する友人の実家は光市の塩田地区にあります。きょうはその話ではありません。もう2年ほど前になりますか。そのご実家に近いところの道路沿いに「雑炊」の幟が立つようになりました。しかも畑に突き刺して。こんなところに雑炊店? 

ひょんなことからネットでこの雑炊店のことを書いたサイトが目に留まりました。写真をみると畑の中に幟が立ち、その奥の家もそうだ。あそこだ。

幟がなかったら、外観だけだと絶対にお店だとは思われない。それに外観からは想像しない内装はおしゃれ。ワインがズラリと並ぶ店内は、経営者のセンスが伺われる。

さらに文章がいい。香りが漂ってきそうだ。これはいいライターだ。誰だ 誰だ? なんだ、身内のような人だった。

coco-iro.jp


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やると言われたら もろうちょけ

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【やると言われたら、もろうちょけ】

キュウリをたくさんいただいた。食べきれないほどいただいた。

若いころ、近所の年寄りに言われたことがある。

「やると言われたら、もろうとけ」

なぜかというと、二度とくれなくなるからと。(;゚;ж;゚; )ブッ.

永六輔さんから教わったことがある。といってもラジオ番組で語っていたことなんだけど。永さんが言うには、施した側がありがとうという。これはイスラムの教え。日本で言えばお遍路さんが八十八か所を回りながらお接待をうける。これと似ているのだそうだ。お遍路さんは仏様なので、お接待をする側がありがとうの世界。食べ物はいただけるし、お金までくれることがある。

キュウリがたくさんあるから、近所にさしあげたところ「そないなもんはいらない」と言われた。あゝそうかそうかい。アンタには二度とやらん。と、こうなってはとても悲しいこと。

断るにしても、言い方がある。「今、うちにもたくさんあるから他の人にまわしてね」。とか、「ウチにもたくさんあるけど、孫たちに送ってあげる。わあ嬉しい」とか言えばとても平和になる。

島は分け合えば余るの世界。差し上げたり、いただいたりの世界。思想家の内田樹(たつる)さんは、この輪が大事だと言っていた。

「やると言われたら、もろうとけ」

これにもそういう意味があるんだろう。

追伸だけど

エビ網にたくさんのダグマエイがのったので、エイが好きだといつも言っていた近所のオッサンの家に持って行った。そしたらオッサンは不在で奥さんに渡したらとてもイヤな顔をされた。あのときはショックじゃったわ~。

※タグマエイとは毒針を持たない小型のエイ。幅が30センチくらいしかならない。学名はなんていうんだろう。煮付けにするととてもうまい。お客さんに出すと、「エエ? 美味い。なんていう魚?」って聞くので「エイ」と答えると、エエ?って驚く。

往年の名車キャロル

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車検で借りていた軽自動車のキャロルから、車検を終えて戻ってきた自分の車フィットに乗り換えて、普通車と軽の乗り心地の違いが改めてわかった。

まずガタガタの振動が少ない。ハンドルが安定。クラッチの切り替えがスムーズ。まあ、クラッチについて言えばアクセルを強めに踏んだときにカクっと切り替わってブンと前へ出る軽は好きかな。

年も年だし、足が少し不自由なので腰に負担がかかることを考えれば、コンパクトカーであれ振動の少ない普通車がいい。

でもキャロルは、小さいころ5馬力の船外機でテンマ船をぶっ飛ばしていたようなあの感覚は面白かった。

あの、たかが5馬力と言いますけどね、水上スキーが出来るくらいスピードが出るんですよ。ちょっとコッケイだけど。(ง `▽´)╯ハッハッハ!!。