鯛の里日記

周防大島町沖家室島の民泊体験施設・居酒屋の日常と、宮本民俗学の学びを書きます。

福田晴子著「宮本常一の旅学ー観文研の旅人たち」

福田晴子さんの著書「宮本常一の旅学―観文研の旅人たち」

やあ、嬉しいです。福田さんが周防大島へ最初に訪れたのは2014年10月4日、周防大島郷土大学で福本卓雄さんが講義をしたその日だった。あれから8年、当時から温めていた構想がようやく結実した。

1966年(昭和41年)、近畿日本ツーリストに設けられた旅研究の場「日本観光文化研究所(観文研)」が創設された。初代所長をつとめたのが宮本常一先生。先生の元に、なかばアウトローな旅好きの若者が集まった。

著者福田晴子さんは、観文研について次のように記している(帯)。

宮本常一のもと、「旅して学ぶ」という社会実験が「日本観光文化研究所(観文研)」で行われた。観文研には社会からはみ出して貧乏旅行を繰り返す若い人々が、類は友を呼ぶように、水が流れ込むようにして集まってきた。宮本は、その若者たちに幾らかの金と居場所を与えそして「さあ存分に歩け」と野に放ったのである。

さあ、これから読むのであるがこの本に登場する若き旅人たち。今は大方が70代となった。戦後の日本の民俗学会をリードした人ばかりだ。実は僕もこの先生方に多くのことを学んだ。いわば師匠なのだ。

まあ、それはオイオイ書くとして福田さんが周防大島に訪れたのは早稲田大学在学中に修士論文書くための調査だった。

その調査になにかしら役にたっていれば幸いなのだが、なにせ当日の講師が福本さんである。単なる勉強会で終わるはずがない。案の定講演後は大宴会となったのである。場所は沖家室の泊清寺離れ「くんさん荘」。福本自然農園がつくる米で仕込まれた澄川酒造の銘酒「環起」が並んだ。各地から訪れた人や地元の者と、夜を徹しての大交流会となったのである。あまり書くと差しさわりが出そうなのでこの辺とするが、またこのような楽しい交流会をしたいものだ。

さてさて、立派な本に仕上がった。監修が宮本千晴さんというのもスゴイ。監修者としてコメントをよせているが、まるで娘を世に出すような心情が伝わってきてあったかい。そして、本文には僕の名前も登場する。やあ、うれしいな。

Amazonでも扱われていますが、ご本人からはぜひ書店でお買い求めをとの希望。おすすめです。

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田舎あるある

【田舎あるある】

こう暑いと家の中ではパンツ一丁。ところが昼間はそうもいかない。

「松もっさ~ん、どがいで」

と、いきなり入って来る。昼間っから鍵を掛けようものなら裏口から現れる場合もある。玄関のカギをかけて風呂に入っていると、外から大声でおらぶ。

「松もっさ~ん」

「風呂じゃ~~~!(××)!」

「車はあるし、倒れちょるんじゃないかと思うた」

電話もそうだ。受話器をとるとイキナリ

「ど~かいの」

「誰じゃアンタは」

田舎あるある

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麻羅観音をたずねる

先日、仕事の用事で萩へ行った。その途中、俵山温泉近くに「麻羅観音」がある。県道281号線沿いにあり、山深いところにあるのかと思ったが意外に道路のすぐ傍だった。

境内に屹立する男のシンボル。少々ドン引きをした。その名も「麻羅観音」。だけど子授けや絶倫祈願のためだけではなく、実は哀しい歴史がある。しかも、この周防大島とも関係があり、我が沖家室島とも少し関わるのだ。

案内版にも刻まれているが今から500年前、時は戦国武将大内氏の時代。現在の中国地方を勢力下においていた大内義興は武力で隆盛を誇ったが、その息子義隆は文化で隆盛を誇った。山口市内に国宝の五重塔瑠璃光寺を建立したのも義隆だった。京の都にたいして山口県が西の京「西京(さいきょう)」と言われる所以である。

そんな間隙を突いて家臣の陶晴賢(すえ・はるかた)が謀反を起こして攻め入り、義隆は自刃した。その息子義尊は追ってから逃れるため、女の子に見せかけるため女装してかくまわれた。ところが追手に見つかり殺され、男子の証として性器を切り取られて持ち去られたのである。

それを不憫に思った里人が、この事件の合った場所に祀ったのが由来。だから決して笑いの取れるギャグでもなんでもなく、ここを訪れると悲しみが込みあげてくる。

さて、時は1555年。時代は織田信長が清州攻めから清州城へ移り、天下をものにする。大内氏の亡き後、同じく大内氏の配下であった毛利元就陶晴賢を討つために挙兵した。その合戦の舞台となったのが「厳島の合戦」。この合戦で、瀬戸内の海の勢力図が一変したという。

毛利方に味方した海賊が能島・因島・来島の三島村上海賊だった。一方、陶方についたのが周防大島の現在の浮島を根城とする海賊宇賀島(うかしま)衆だった。このころの海賊は独立した存在で、その都度どこへ付くか決めていたそうだ。その頃、我が沖家室島も大内氏の勢力下にあったのでこの島の海賊は桑原氏だったであろう。だから毛利方に付いたであろう。

この戦で陶は破れ、その戦の褒章で周防大島は来島海賊の領地となった。久賀の東郷山(トウゴン山)の頂上に村上通康(来島)の城があった。この合戦以降、村上海賊は瀬戸内の制海権を握ることになる。第一回木津川の合戦では、毛利水軍として信長軍を討ち破るまでの日本最強の海賊衆となった。

さて、時は流れ時代は豊臣の時代となる。1588年、秀吉は海の刀狩りというべき海賊禁止令を出す。これにより、海賊行為は禁じられて多くの海賊は島を後にする。この沖家室も無人島となり、海賊は上陸することになる。島には海賊浦という地名が今も残りそこで桑原氏が海賊をおこなっていたのだろう。桑原姓が対岸の地区に多いのはその末裔だろう。

その後、豊臣の跡目争いで1600年に関ヶ原の合戦が起こる。毛利が石田三成側に付き、徳川から防長二ヵ国に厳封させられてしまう。この時、周防大島を領地にしていた来島村上は徳川方に付いたため、毛利と袂を分かち三島村上は分裂をしてしまう。その後、来島村上は名を久留島と名乗り、現在の大分県豊後国に領地を与えられ森藩主となる。

ところが事故が起こる。1663年、藩主通春の息子通方(みちかた)が参勤交代のため通りがかったこの沖家室の瀬戸の暗礁に乗り上げて、11名全員が亡くなってしまった。沖家室大橋の下に灯台があるが、その岩礁である。安下庄の嶽山中腹にある普門寺の海賊の墓がこの一行の墓である。かつて周防大島を領有していたこの地で亡くなるとはもののあわれでもある。

話しは前後するが関ヶ原の合戦後、伊予の戦国大名河野氏も滅亡となる。その家臣だった石崎氏一行が、海賊禁止令で無人島になっていた沖家室に住んだのが1606年。その5年前の1601年、かつての村上海賊の大将であった能島村上武吉氏が周防大島東和町の和田に移り住んでいた。同じ河野家の配下であったことから、「沖家室が空いているから、こちらへ来ないか」と武吉が招いたのではないかと個人的には推測する。

石崎氏は武士に取り立てられ、後に分家が友澤と名乗る。毛利藩から、かつて海賊宇賀島衆の根城だった浮島と水無瀬島、安下庄三ツ松の一画を領地として与えられ開発に乗り出す。ちなみに浮島とは、誰も所有していないという浮いた島という意味だそうだ。

しかし、友澤家の浮島の開発は苦労したようだ。対岸の森村の人が塩を焼くための薪山としており、所有権をめぐって争いが絶えなかった。対岸の森村からみれば手の届くほどの距離であるのに、安下庄に属したのは争いを嫌ったものだ。

友澤家が毛利藩から拝領された安下庄三松は、大政奉還のときに藩へ返上された。浮島の土地も、そのころに返上したようだ。大水無瀬島の土地については、島嶼学会会長の長嶋先生の民俗調査をお手伝いするときに島の公図を取り寄せた。鯛の里の二階の部屋を埋めるほどの図面が広がった。石崎家の本籍は今も大水無瀬島にある。すでに亡くなられた当主に聞いた話だが、本籍地の地番が沖家室島になく役場に問い合わせたら水無瀬島だったそうだ。沖家室1番地はどこかと思ったら、石崎家の井戸だったそうだ。

陶の話に戻るが、山口市内に今も陶という地区がある。陶晴賢の姓もそこからきている。また、余談になるが戦後、国の入植政策に応募して陶を開墾したのは松本家だった。山間地の荒れ地だったそうだ。僕のいとこが今もその土地に住んでいる。

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畑中章宏著「廃仏毀釈 寺院・仏像破壊の真実」

 

6月18日に開催した郷土大学講義の畑中章宏先生が書かれた「廃仏毀釈 寺院・仏像破壊の真実」。サインをいただきました。これから読みます。

以下は現在の僕の認識です。ジャーナリスト鵜飼秀徳著「仏教抹殺」がベースになっています。

廃仏毀釈」とは、維新後の新政府から発布された「神仏分離令」。これをきっかけに全国で仏像や仏具などが破壊されるという廃仏毀釈運動が起こります。その名の通り「釈」とは釈迦を指します。新政府は廃仏を命じたわけではなく、神社と寺を分離するというもの。

ところが寺の支配に積年の恨みを持つ神官、地方権力者の忖度などが、運動体として暴動へとつながります。寺や仏像は壊され焼かれ、石仏は首をはねられ、僧はその地位を追われます。たった数年で全国の寺院は半分になります。これがなければ国宝もこの3倍はあっただろうと言われています。

もっとも酷いのは鹿児島県。すべての寺院が焼かれ、すべての仏像が壊され、仏具も廃棄されます。維新政府のリーダー薩摩藩であったこと、当時の藩主島津斉彬の命令によってなされました。

では、もうひとつの維新政府リーダーである長州藩はどうだったか。新政府の神仏分離令のとおり、社寺の整理統合をしたもので破壊行動は高杉晋作らの一部のはねあがりであったと言われています。そして、浄土真宗西本願寺派の僧侶の抵抗がかなりあったと言われています。全国的にも西本願寺派の僧侶の抵抗が激しかったようで、本山が政府に抗議した結果、破壊行動を扇動した役人を更迭させた例があったようです。廃仏毀釈が収まった以降、とりわけひどかった薩摩など、真宗がいち早く復興に取り組んだとも言われています。。

この周防大島ではどうだったか。東和町誌には詳しくは書かれていませんし、破壊行為があったとは伝わってきません。「明治政府の廃仏毀釈の運動のあおりをうけて廃寺となり合併したものの中には、禅宗寺院がもっとも多かった」(p.224)との記述があるのみです。

沖家室では、当時の泊清寺住職が本尊を背負って韓国に渡り布教につとめたという話が伝わっています。当時の檀家が破壊行為を行ったという話は、聞いたことがありません。

明治維新とはなんだったんでしょうね。そしてこの狂気がわずか数年で煽られてあっという間に全国規模に広がってしまったこと、それが日本人の気質とどう関係するのか。そして実際にその後昭和時代にいたるまで、次々と大きな戦争へとつながっていきます。国家神道化と王政復古は無関係ではないでしょう。明治から150年。祝賀ムードとは裏腹に、こうした隠された真実にも目を向ける必要性を感じます。

民俗学者畑中章宏先生からからみた廃仏毀釈。著書を読み、より深めていきたいと思います。

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池内紀著「すごいトシヨリBOOK」

ドイツ文学者 エッセイストの池内紀(おさむ)さん著書「すごいトシヨリBOOK」。

すでに読んでいたが、また読みたくなったので手にした。自分の老後の在り方を考えていたら、ふとこの本を思い出したのだ。

この本は池内先生が77歳のときに書かれたもの。

70歳の時、77歳まで生きるという仮定をたてたそうだ。そして77歳になったとき、三年を一区切りにする。そしてまた更新をする。

老いとどう向き合うか、今まで生きて来た教訓からいろんな知恵がちりばめられている。先生は旅好き。池内流旅の極意も記されている。

実は2010年8月30日に、周防大島郷土大学の講師としてお招きし講義をいただいた。そのときに小宿「鯛の里」へお泊りになった。同じ郷土大学の役員である光田さんの大学時代の恩師でもあるというご縁だった。

焼酎のロックをカラカラさせながら夜が更けるまで呑んだ。

「私はね、高級なピカピカした宿よりもこうした仕舞屋風の宿が好きでしてね」

仕舞屋(しもたや)とは、店じまいをした家の意の〈仕舞(しも)うた屋〉から変わった言葉で,商売をしていない家をいう。高名な作家にこんなボロ宿は申し訳ないと思っていたが、少しほっとした。この夜のことは他の著書で旅の思い出として書かれていた。

その先生が2019年に、この本を書いた77歳の翌年78歳で亡くなられた。三歳一区切りの更新もせずに逝ってしまわれた。命日となったその日は郷土大学の講義の日から9年後、同じ8月30日だった。

なんとあっけないものだ。まだまだいろんなところを歩き、記録を残したかったに違いない。

話しは自分にフルが、僕は今年で66歳を迎える。前期高齢者の仲間入りを果たした。では体はどうかというとガタガタ。夜目が利かなくなり、耳は遠くなった。足もケガの後遺障害がある。

父は最後の船を新造したのが74歳。本船14隻、小さな船を入れると17隻の船をつくった。僕にはそんな財も体力もない。そんな父もボケ始めたのが85歳のころ。おそらく僕もそのころにボケるかもしれない。そう思うと、その年まであと20年。それまでに、まだ見ぬ土地を観てみたい。旨い酒をたらふく呑みたい。いや、その年にはこの世にはいないかもしれない。できればそれまでに、持ち物をゼロにしたい。そんなあれこれを思うと、焦るのである。

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周防大島郷土大学講義 民俗学者 畑中章宏先生

周防大島郷土大学2022年度講座(再開第90回)

2022年度全3回講義

第1回「宮本民俗学の原点『大阪』ー大阪が育んだ〈公共〉へのまなざし」

講師:畑中章宏

日時:2022年6月18日(土) 14:00から

会場:東和総合センター大ホール(山口県大島郡周防大島町平野)

受講料:1,000円(18歳以下は無料)

講師プロフィール

畑中章宏 (はたなか・あきひろ)

1962年大阪生まれ。民俗学者。著書に『柳田国男今和次郎』(平凡社)、『災害と妖怪』 (亜紀書房)、『ごん狐はなぜ撃ち殺されたのか』『蚕』(晶文社)、『先祖と日本人』(日本評論社)、『天災と日本人』『廃仏毀釈』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)、『死者の民主主義』(トランスビュー)、『五輪と万博』『医療民俗学序説』(春秋社)ほか。宮本常一を論じた著作に『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)がある。

 

春の子ネコあらわる

<子ネコ現わる>

隣のオジサンが前庭で刈込バサミの手をとめて、隅をジーっと見つめていた。

「どうしたんですか?」

「いやあ、さっき玄関を開けたら子猫がおって跡をついてくるんじゃ」

その目先には手のひらに収まるくらいの茶トラがいて、「ミュー」。

そろそろそういう時期か。と思っていたら今朝、ウチの裏口にも小さな子猫がいた。

島と猫は相性がいい。お年寄りの癒しにもなるし、家をあけっぱなしにしない限り荒らされることはない。困るのはウチのような宿だ。お客さんがたまに開けっ放しで外へ出ると、猫がスッと入り込みババをする。だから玄関には「猫が入ります。出入りには閉めてください」と張り紙をしているが、小さな子どもはそんなことはお構いなし。

エサは大丈夫かって? 心配はいらない。潮が引けばなんかいる。猫が魚を咥えて浜から上がって来る姿をよくみかける。干潟の潮だまりに逃げ遅れた魚をみつけるのだろう。猫は動く物をけっして見逃さない。

ひとつ親御さんには注意をお願いしたい。野良といえども懐っこい猫もいるが、下手に手をだすとカプっとやられるか引っかかれる。菌を持っている可能性もあるので、子どもが下手に手を出さないようにご注意を。野良は野生でもある。

<続編・猫の爪は鉤(カギ)>

僕は動物アレルギーがあるので犬猫はさわりません。けど、子ネコは経験的に恐さを知らないので近づいてきます。

ずいぶん前になりますが、庭の草刈りをしていると子ネコが近づいてきました。別にかまうつもりじゃないんですけど、手を伸ばしたそばに子猫が居て腕をカプっと咥えました。甘噛み程度で痛くもない程度でしたのでほっとくと、歯型の黒血が出来ていました。内出血です。

猫の歯は鋭いんですねえ。すぐに消毒しましたけど、2.3日すると黄色にかわりそのうち治りました。犬の爪はそれほどではありませんが、猫の爪は鉤(カギ)ですね。コンクリでもカッと刺さり、壁をよじ登っていきます。以来、猫には手を伸ばさないようにしています。

<内出血の方言>

猫にかぶられて内出血を起こし、島の方言ではこのような症状を黒ジニとか黒ジが死ぬとか言う。そこでちょっと調べてみた。

千葉・茨城はアオナジミ。愛知、岐阜、和歌山、高知では青にえ。さらに濃い黒にえ。関西では死ぬになるそうだ。東北では黒血。全国でいろいろな言い方が混ざるのは、人の交流で散らばったのではないかという。黒血は熊本でも使うそうだし、ウチの島も黒じが死ぬというのも、黒地がシヌとか黒シニは黒血と死ぬが混ざったものだろう。知らんけど。

<お犬様>

母の小さいころの思い出話にこんなのがあった。

昔、犬に憑りつかれて二階の部屋に閉じ込められた人がいると聞いたことがある。よだれをだらだら流してそれはまるで犬のようだったと。その家をお犬憑きと呼んでいた。

母が生まれたのは昭和7年(1932年)。それ以前の話だろうから、かなり古い時代の話。おそらく狂犬病に罹っていたのだろう。

日本では1957 年以降発生していないそうだ。ところがイギリスでは、2002年にコウモリによる狂犬病に似たウイルスの感染で死亡した例があるとのこと。このコウモリは日本国内でもいるらしく、注意が必要だとのこと。接触する可能性がある人はワクチン接種をと呼び掛けている。

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